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福音メッセージ集 上流の人の必要
ウオッチマン・ニー,ウイットネス・リー著

新約聖書、ヨハネによる福音書第三章一節から十六節

 パリサイ人のひとりで、その名を二コデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がごー緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしはだれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく、だれでも新しく生れなければ神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく、だれでも水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。ニコデモはイエスに答えて言った、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」。イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか、よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のごとを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(回復訳



聖書の中心

 キリスト教の中に一つの最も尊いものがあります。それは、人が容易に触れることができ、また見ることのできるものです。すなわちこの聖書です。この聖書の中には人類間でも比類のない価値と力があることをだれもが承認しないわけにはいかないでしょう。 宗教上から見て、聖書は特に超越した地位を持っているだけでなく、文学上から言っても(もちろんそれは文学に重点をおいてはいませんが)、非常に高い文学的地位を持っています。またそれは科学から言っても(それは科学に重点をおいてはいませんが)すぐれた科学的地位を持っています。ところがとても残念なことに、多くの人は聖書に対してあまりにも浅薄な認識しか持っていません。あまりにも門の外側からしか聖書を見ていないのです。大抵の人はただ、聖書が個人に対していかに影響を与えたか、社会に対して、国家に対して、そして全人類の文化に対していかに影響を与えたかということしか見ておらず、聖書の内容はどうであるのか、聖書の中心は何であるのかあまり理解していないようです。

 聖書は六十六冊にも分かれていますが、その主題、その中心はただ一つであって、それはわたしたちが宣べ伝えている主イエスです。あなたがもしこの聖書の中から主イエスを取り除けば、この聖書はただ皮が残るだけで中身は空っぽになってしまいます。主イエスがあってこそ聖書の実際があるのです。ですからあなたが聖書の内容を知ろうとしたら、必ず主イエスを認識しなければなりません。

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主イエスの不思議

 ですからみなさん、これからわたしたちは、数多い聖書の中からヨハネによる福音書を選び、聖書の中で言っているこの主イエスがどなたであるのか、彼とわたしたちとはどんな関係にあるのかを見てみましょう。

 多くの人は、主イエスは単に一つの宗教の教主であると見ています。多くの人の考えでは、彼は一人の改革者であり、また他の多くの人たちから見れば、彼は一人の完全な人で高く深い思想と高尚な道徳を持っている人にすぎません。人々が主イエスに対して持っているこれら種々の見方は、実はいずれも正確ではありません。わたしがみなさんにぜひお願いしカいのは、今しばらくこれらの種々な見方を一応わきへおいて、主イエスがどういうおかたであるのか聖書から見ていただきたいのです。

 例えば、ある有名な人が時間空間において、わたしたちと非常に遠くかけ離れているとしたら、わたしたちはどうすれば彼を認識することができるでしょうか。聞き伝えだけに頼ることはできません。わたしたちが彼を知ろうと思えば信頼できる確かな伝記が必要です。聖書の中に四冊の書物があります。実はそれらはもっぱら主イエスの生涯を書いている主イエスの伝記とも言えるものです。それはマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の四冊です。この四冊はみな主イエスを描写しています。

 なぜ四冊の書で彼を描写しなければならないのでしょうか。それは、主イエスがあまりにも不思議で多方面を持つかたなので、一冊の書ではとても描写できないからです。主イエスは少なく見ても四つの面を持つかたです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのこの四冊の書は、それぞれ異なった角度から書かれています。マタイ、マルコ、ルカ、この始めの三冊は書き方がそれぞれ違いますが.それらはみなわたしたちに主イエスが一人の完全な人で、わたしたちの救い主であることを見せています。ところがヨハネによる福音書はこの点で、前の三冊とは大きな違いがあります。ヨハネによる福音書は、人の中の人、人より優れた人であるこの主イエスを神、すなわち初めからおられた神として記しています。すなわち主イエスは天地万物と人類を創造された神であることをわたしたちに示しています。

 また彼は天地万物、人類が存在する以前にすでにおられたと記しています。彼は時間を超越した初め、すなわち永遠の中で神なのです。ある日そのかたが肉身となりました。人のかたちを取り、この世にこられたのです。彼は時間を超越した初めから神でしたが、ある日、人の体を着て一人の人となり、人の間にこられました。彼は外側から見れば人でしたが、彼の内側は神でした。

 これが主イエスの不思議な点です。外側は人で内側は神です。あなたがもし彼の外側を見るのでしたら、彼は普通の人としか感じないでしょう。しかしあなたが彼の内側を知れば、あなたは彼が神だということがわかります。彼が地上におられたとき、彼の弟子たちは初めのうち彼の外側を見て、彼は普通の人にすぎないと思いました。弟子たちは彼の母がだれであるか、彼の家がどこにあるかを知っていました。また彼は疲れた時には休み、空腹になれば食事をし、のどが渇けば水を飲みました。彼にも喜怒哀楽がありました。彼は各方面で全く人と同じでした。ところが、彼の言葉の知恵と権威はこの世を超越しています。彼の力もこの世を超越しています。彼の話す言葉は人が絶対に言い出せない言葉であり、彼の行なう事も人が絶対にできない事です。ですから彼の弟子たちは彼の話を聞き、彼のなさった事を見ては、いつも、彼はいったいどういうかたなのだろうと質問していました。

 愛するみなさん、この問題をヨハネによる福音書ははっきり答えています。その冒頭に、この完全な人であるイエスは時間を超越した初めからおられる神、万物を創造された神であって、すべてのものは彼によってできたということを見せています(一・一―三)。また彼は至る所におられます――彼は別の場所にいて遠く離れている人を見ることができたことを証明しています(一・四十七―五十一)。彼にはできない事はありません――彼は水をぶどう酒に変えました。すなわち無を有に変えました(二・一―十一)。 彼にとってわからない事はありません――彼は人の心の中にある事さえ知っておられます(二・二十三―二十五)。彼は永遠の中におられる神が時間の中で人となってこられたのでした。

 彼がこうして人となられたのは、人の間にこられ、人と接触し、人に神の恵みを得させるため、すなわち人に神の命を得させるためです。また人に神の真理、すなわち神ご自身を知らせるためです。これがヨハネによる福音書がわたしたちに示していることなのです。

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主イエスが接触された人

 ヨハネによる福音書は、初めの二章で主イエスが神であることを証明した後すぐに、当時主が地上で接触されたのはどういう人たちであるかをわたしたちに見せています。主イエスが地上で接触された人は何千何万にも上ります。もし彼ら一人一人の状態を書き出すとしたら、あまりにも時間とページを使いすぎるので、ヨハネはその何千何万の人の中から幾つかの型の人を選んで代表としました。この選ばれた人たちは一人一人みな、彼と同類の似通った人たちを代表することができます。

 ヨハネによる福音書の第三章から第十一章までに、当時主イエスが接触された人は全部で八種類であったことをわたしたちに見せています。第三章では第一種類の上流の人、第四章では第二種類の下流の人、第五章では第三種類の弱い人、第六章では第四種類の飢えている人、第七章では第五種類の渇いている人、第ハ章では第六種類の罪を犯している人、第九章と十章では第七種類の目の見えない人、第十一章では第八種類の死んでいる人です。この八種類の人は、当時主イエスと接触したすべての人を代表します。それだけでなく今日、この世の各種類の人をも代表します。ですから彼らの状態はすべての人の状態であり、彼らの必要はすべての人の必要です。

 この八種類の人は、この世の各種類の人を代表できるだけでなく、また一人の人の八種類の状態をも代表することができます。だれでもみな

 一、上流の人になりたいです。
 二、しかし実際生活はそれに反して下流で、不名誉を免れません。
 三、良い行ないをしようとする願いはあっても、行なう力がありません。
 四、人生は不満足で心は飢えています。
 五、この世の楽しみはむなしく、心の霊は渇いています。
 六、罪の中で生活して、罪の奴隷になっています。
 七、心の目は見えず神を知りません。自分を知りません。人の由来と終極を知りません。
   そして人生の意義が何であるかを知りません。
 八、霊は死んでいて神に対する感覚を失い、神を感じることができず、霊のことを知りません。

 この八種類の状態は、この世のすべての人の実際の有り様です。そしてこの問題を解決できるのはただ主イエスだけであること、わたしたちのこれらの状態を解決することができるのは、ただ主イエスだけであることを見ることができるのです。

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第一種類の上流の人

 わたしたちは今、まず第一種類の上流の人を見ます。この第一種類の人は、この社会にあって確かに道徳があり地位のある人です。ヨハネによる福音書は、この道徳があり地位のある人を第一種類の人としています。今読んだ聖書の中に記されている人の名は二コデモと言い、この第一種類の人を代表する人です。この人には少なくとも五種類の資格と優れた点があります。

 第一に、彼は一人のパリサイ人です。当時のユダヤ人社会の中でパリサイ人は、今日の道徳学者のような人で、道徳を教える人です。この人はパリサイ人ですから確かに道徳を重んじています。彼の道徳は確かに高尚です。

 第二に、彼はユダヤ人の指導者です。彼は普通の庶民ではありません。彼は高貴な役人です。ですから彼には地位があり、名望があります。

 第三に、彼はイスラエルの教師です。彼は人を教え導く教育者ですから、確かに学問があり知識のある人です。

 第四に、彼は一人の老人です。彼は「年をとった」と言いました。彼は年をとっている人であって、始めて社会に出た人ではありません。、ですから彼は確かにこの世の事を豊かに味わってきた人で、経歴があり、経験のある人です。

 第五に、彼は一人の宗教家です。彼は無神論者ではありません。彼は神を信じている人です。彼が主イエスに会いにきたのは、主イエスと神の事を研究するためでした。ですから彼は宗教思想に富んだ人です。

 ある人には道徳がありますが、地位があるとは限りません。ある人には地位がありますが、学問があるとは限りません。ある人には学問がありますが、経歴があるとは限りません。またある人にはこの四種類みなありますが、宗教の思想があるとは限りません。ところがこの人には道徳があるだけでなく、地位があり、学問があり、経歴があり、また宗教の思想もあります。彼は人の群れの中で数少ない高尚な人であると言い得ますから、彼を人の群れの中の第一種類の人の代表としたのは最も適切であると言えます。彼が代表しているのは、人の群れの中で道徳があり、社会で地位があり、学問のある上流の人です。彼の状態は彼らの状態を描写し、彼の欠乏は彼らの必要を言い表しています。

 みなさんの中にもこういう人が多いとわたしは信じます。あなたは修養があり道徳があるかもしれません。あなたは社会的に地位があり名望があります。あなたは学問があり、また人生経験があります。あるいは宗教の思想を持っておられるかもしれません。あなたの人となりや心の状態は、あるいはこのニコデモと同じかもしれません。各方面でみな同じだと言えなくても、少なくてもある面においては彼と同じです。ですから彼はあなたを代表できます。彼の必要はあなたの必要です。彼が主イエスに会いにきたというのは、あなたが主イエスに会いにきたことなのです。主イエスが彼に話した言葉は、あなたに話す言葉です。言い換えれば、主イエスはあなたとわたしにも語っておられるのです。

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人の観念

 彼は主イエスのもとに来て言いました、「先生、・・・・・あなたが神からこられた教師であることを知っています。」彼はこの言葉の中で自分の観念を言い表しています。また彼の主イエスに対する認識も言い表しています。彼は主イエスを先生と呼びました。彼から見て主イエスは一人の先生でした。それで彼は、主イエスを神からこられた教師であると言ったのです。彼が主イエスに対してこういう見方をしているのは、彼に一つの観念があったからです。

 それは、人が必要なのは教えであって、人をよく教え導けば良い人になるというものです。彼は、人がこのように悪いのは教えが不十分なためで、人を教え導く一人の良い教師が必要であると思っているのです。ですから彼の考えでは、主イエスは確かに神から遣わされた教師であり、人がいかになすべきか、いかに善を行なうべきかを教え導く先生だと思っています。彼が見た人の問題は、教えの問題です。人の必要は教えであって、一人の良い教えを施す教師が必要であると思っているのです。

 彼のこの観念は、やはり今日の多くの人の観念でもあります。今日の多くの人、特に教育者は大抵、人が良い人になるためには必ず良い教えが必要であって、良い教育を受けなければならないと思っています。彼らは人を良く教えることができると思っています。もし一人の人が多くの教えを徹底的に学んだら、その人は必ず良い人になることができ、人の上に立つことができると思っています。

 古今東西の多くの道徳的な人、多くの思想を持っている人はみな、当時主イエスに会いにきた二コデモと同じです。人が良くなる道は、教えられてよくよく修養することであると思っています。人の観念ではみな、人は良い行ないをすることができるし、修養すればできると思っています。

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主の見方

 しかしながら、人のこの観念は間違っています。人は良い行ないができないのです。人の必要は教えではありません。主イエスがこられたのも先生になるためではありませんでした。二コデモが主イエスを先生と呼んだとき、主はすぐに彼の言葉を打ち切って彼に答えられました、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。二コデモの観念では、人には教えが必要であり、良い教えがあればいいと思っています。ところが主イエスは、人が必要としているのは教えではなく、「新しく生まれる」ことであると言われるのです。教えるのは行ないの問題ですが、「新しく生まれる」のは命の問題です。ニコデモは人の行ないが悪いのは、その人が受けた教えが悪いから、また育てられ方が悪かったからだと思っていました。彼の観念の重点は行ないを改めることにありました。彼は人の基本的問題は行ないではなく、命であることを発見していないのです。

 例えば、一本の木が非常に悪い実を結んだとします。渋くて酸っぱいのです。それでは、はさみで枝を整え、肥料を施し、それを良く育てるなら、良い実を結ぶでしょうか。わたしたちが知っているように、枝を整え大切に育てたとしても、良い実を結ぶどころか、かえってそれはもっと多くの悪い実を結ぶようになるでしょう。問題は外側を整え育てることではありません。内側の命を変えることです。整えることや育てることは不必要だというのではありませんが、それは第二の問題です。先決問題はその中の命を変えることです。その中にある元来の命は酸っぱい実を結ぶ命なのですから、外側でそれを整え育てたとしても、少しも内側の命の性質を変えることはできません。手入れをして育てれば、あるいは実の外側の形は変わっても、内側の味は少しも変わっていないのです。

 愛するみなさん、教育訓導はせいぜいあなたの外側の行いや外側の生活を改めるぐらいであって、あなたの内側の命を少しも改めることはできません。教え導き育てることは第一の問題ではないのです。

 第一の問題は、あなたの内側の命を変えることです。ですから主イエスはニコデモに「新しく生まれなければ」と言われたのです。

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新しく生まれる

 「新しく生まれる」、この言葉はとても深い意義があります。「生まれる」は子供が生まれるの生まれるで、「新しく」とはもう一度の意味です。ですから「新しく生まれる」とは、もう一度生まれる事なのです。

 みなさん、考えて御覧なさい。酸っぱい実を結ぶ木に、酸っぱい実でなく甘い実を結ばせるのにはどうしたらよいでしょうか。接ぎ木をご存じですか。酸っぱい実を結ぶ木を半分の所で切って、そこに甘い実を結ぶ木から切ってきた枝を接ぐのです。このように接ぎ木をした後、時がたてばまた花が咲き実を結びます。しかも甘い実を結びます。ですから酸っぱい実でなく、甘い実を結ばせるのは、その外側を整え育てることによってではなく、必ずその中の命を改めることによってできるのです。ニコデモは修養を積んだ人でした。しかし彼は良い行ないができないと感じていたので、主イエスにどのように修養したらよいか教えてもらいたかったのです。それによって彼はとても良い人、人の上に立つ人になることができると思いました。しかし主イエスは、彼の必要は外側の教えではなく、内側の命、すなわちもう一度新しく生まれることであると教えられたのです。

 みなさん、聖書が第一に重んじているのは、修養ではなく、新しく生まれることです。わたしは多くの人に出会いましたが、彼らは一様に宗教は良いものである、宗教とは良い事をするように勧めている、すべての宗教は、大きい目標ではみな同じで、ただ言い方が違うだけであると言います。これらの言葉は別の宗教に当てはめるなら合うかもしれませんが、キリスト教という頭にかぶせるのでしたら、それは他人の帽子をかぶせることになります。キリスト教は、実は人に良い事をするように勧めるのではありません、かえって人は良い行ないをする事ができないと言うのです。キリスト教はあなたやわたしのような者は良い事を行なうことができないのだと言うのです。あなたやわたしのような木は、せ甘い実を結ぶことができないのです。あなたには良い行ないをしようとする気持ちがあり、考えがあります。しかしあなたには良い行ないをする命がなく、力もないのです。

 みなさん、あなたは良い行ないをしようと思っておられるでしょう。良い行ないをするのは正しい事です。しかしあなたにはその力がありません。あなたの内側の命は悪いのです。ですから良ぃ行ないができないのです。あなたが良い行ないをするのには、必ずまず命を変えなければなりません。すなわち必ず新しく生まれなければならないのです。

 多くの人はキリストに倣うと言います。しかし、キリストの命がないのにどうしてキリストに倣うことができるでしょうか。もし人がキリストに倣おうとするなら、必ずその前に新しく生まれなければなりません。まずキリストの命を得なければなりません。キリストの命を持っている人だけが、キリストに倣うことができ、キリストに従うことができるのです。

 二つの群れがあります。一群れはひよこで、もう一群れはあひるの子です。ある日、それらを飼つている人がひよことあひるの子を一緒に連れ出しました。小川のそばに着いた時、飼っている人はひよことあひるの子を分ける必要がありません。それらは自然に分かれるからです。川辺に着くと、あひるの子は水に入ってとても楽しそうです。ところが、ひよこは驚いてそこから離れます。ひよこの命は水を恐れるのです。ひよこを無理に水の中へ入れようとしても、ひよこは入ろうとしません。あひるの子の命は水を好みます。あなたかあひるの子を水の中へ入れたくなくても、あひるの子は入ってしまいます。あひるの子が水を好むのは教えたからではありません。これはあひるの命の特性、命の本能なのです。

 幼い時から、父母はあなたにうそをついてはいけないと言います。その後、先生や年上の人たちも、あなたにうそをついてはいけないと言います。ところがあなたはうそをついてしまいます。あなたがうそをつくのは教えられたからでもなく学んだからでもありません。それがあなたの命の特性、命の本能なのです。

 あなたは多くの罪を犯します。それは、あなたが犯罪の学校に入ったからではありません。人が罪を犯すためには、犯罪の大学に入る必要がないばかりか、犯罪の小学校にさえ入らなくても罪を犯すことができます。罪を犯すことは、人の中にある命の特性であり、命の本能であります。

 あなたが二十歳になると、両親はあなたに一人の成人であることを自覚させ、でたらめな行為をしてはいけないと言います。結果はどうでしょうか。多くの人はかえって知らず知らずのうちにダンスホールヘ行きます。悪い友達と交わってしまいます。これは、わたしたちの内にある命がどうであるかをわたしたちに示しています。もしわたしたちの内側の命が良いとしたら、なぜ外側の行ないが悪いのでしょうか。なぜ外側で酸っぱい実を結ぶのでしょうか。

 愛するみなさん、あなたのこれまでの歴史はいかがでしょうか。良いでしょうか、それとも悪いでしょうか。もしあなたが正直な人なら、頭を下げて、あまり良くないと言うでしょう。あなたのこれまでの歴史、あなたの今日の生活を見れば、あなたの中の命が悪いことがわかるでしょう。わたしを悪くしたのはある友達のせいだという人があるかもしれません。しかし他人に対してつぶやかないでください。もしあなたの中にある命が本当に良かったなら、あなたを外側から悪くすることができるでしょうか。あなたの問題は外側の行ないではなく、内側の命です。あなたが一番必要なのは、外側の行ないを改めることではなく、内側の命を変えることです。あなたは新しく生まれる必要があります。あなたはもう一度生まれる必要があるのです。

 また、命というものはただその命に属する領域の事しか知ることができません。例えば猿は人の領域の事を知りません。なぜなら猿には人の命がないからです。しかし一人の子供に幼稚園の事を教えると必ずわかります。続けて小学校の事を教えれば彼にはわかります。小学校を終わって中学校の事を教え、また高等学校、さらに大学の事を教えても、彼はみな学び終えることができるでしょう。では今、あなたが一匹の猿の子に教えたらどうでしょうか。大学は言うまでもなく小学校でさえ、猿は学ぶことができません。猿の様子は人に似ているかもしれません。しかし猿は人の理解する事を理解することができません。猿に人の領域の事を教えることは無理です。もし、猿に人の領域の事を知らせたいのでしたら、あなたは必ず先に猿に人間の命を与えなければならないでしょう。

 同じように、人は人自身の命によっては神の国の事を知ることはできません。わたしたちも神の命を持っていない人を教え導いて、神の国の事を理解させることはできません。一人の人の学問がいかに高く、また知識がいかに広くても、もし彼に神の命がなければどのように教え導いても、彼は神の国の事を知ることができません。ただ神の命によってのみ神の国の事を知ることができるのです。人が神の国の事を知りたければ、神の命がなければなりません。新しく生まれなければならないのです。ですから主イエスは「新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われたのです。

 主イエスがこの世にこられたのは、人を教え導くためではなく人に命を得させるためでした。彼がこの世にこられたのは人の教師になるためではなく、人の命になるためでした。人に命があってこそ教え導くことができるのです。ですから教え導くことは人の第一の必要ではなく、命こそ人の第一の必要です。人はまず命を得る必要があります。まず新しく生まれる必要があるのです。

 自分には道徳があり、学問があると思う人は、道徳がなく学問のない人には新しく生まれる必要があるが、自分のように道徳があり学問のある者は、新しく生まれる必要がないと思っているかもしれません。しかしそうではありません。道徳のない人が新しく生まれる必要があるだけではなく、道徳のある人もやはり新しく生まれる必要があるのです。学問のない人は新しく生まれる必要があるのですが、学問のある人もやはり新しく生まれる必要があるのです。なぜなら、道徳のない人は神の命がないので神を表現することができないのですが、道徳のある人もやはり神の命がないので神を表現することができないのです。学問のない人は神の命がないので神の事を知ることができませんが、学問のある人も神の命がないので、やはり神の事を知ることができません。学問があってもなくても人はみな同じように、神の命が必要です。道徳があってもなくても人はみな同じように、新しく生まれる必要があるのです。

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新しく生まれるとは何でしょうか

 ニコデモは「新しく生まれる」という言葉を知っていましたが、新しく生まれることの意義を知りませんでした。「新しく生まれる」という言葉は、もう一度生まれる事ですから、彼は新しく生まれるとは必ずまた母の胎に入って生まれるのだと思ったのです。ところが新しく生まれるというのは、もう一度生まれる事ですが、また母の胎に入って生まれるという事ではありません。もう一度、母の胎に入って生まれたとしても、「肉」から生まれるのですから、やはりそれは人の命です。

 二コデモは、人は年をとったので悪くなったのだ、年をとったのでずるがしこくなったのだ、もしもう一度母の胎に入って生まれることができたら、若返ってみどりごになれると思ったのかもしれません。ところが、もう一度、母の胎に入って生まれることができたとしても、それはやはり肉であり、悪い命であり、年をとればずるがしこくなる種がその中にあるので、六十年たてばやはり悪くなり、ずるがしこくなることを知らなかったのです。

 新しく生まれるというのは、また母の胎に入って生まれることではありません。それほ「聖霊から生まれる」ことです。聖霊から生まれるものは霊であり、神の命なのです。ですから新しく生まれるというのは、人が自分の命以外に神の命を得るということです。新しく生まれるとは、神の霊が人の中に入り、神の命が人の中に置かれるということです。この命は霊的なもので、人の目には見えず、人の手では触れることができませんがハ人はそれを感じることができるのです。ですから主イエスは、聖霊から生まれた命は風のようだと言われたのです。

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どうして新しく生まれることができましょうか

 ニコデモは、新しく生まれるのは聖霊から生まれる事だと知ると、主イエスに聞きました、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」。彼はどうすれば新しく生まれることができますか、どうすれば神の命を得ることができますかと聞きました。

 主イエスは「モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられねばならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」と答えられました。主イエスのこの答えは、人が新しく生まれるためには、二つの事がなければならないことを見せています。

 一、主イエスが必ず上げられるという事、すなわち十字架上で死なれるという事です。青銅の蛇が荒野で上げられ、イスラエル人の代わりに神の裁きを受け、死の中にあったイスラエル人を生かしたように、主イエスは必ず十字架に上げられ、わたしたち罪人の身代わりになって神の裁きを受け、それにより、わたしたちに神の命を得させ、新しく生まれることができるようにされるという事です。

 二、わたしたちは必ず、この上げられた主イエス、十字架でわたしたちの罪を担って裁かれた主イエスを信じなければならないという事です。わたしたちは神の御前に罪人であり、死ぬべき者であることを告白し、主イエスが十字架で打たれたのはわたしたちの罪を担い、わたしたちの代わりに神の義の裁きを受けられた事を信じなければなりません。こうしてわたしたちは罪のゆるしを得、新しく生まれることができるのです。

 あなたがもし自分は罪人であつて良くなる方法がないことを認め、神の御前でへりくだり、自分自身の罪を告白し、心から主イエスをあなたの救い主として受け入れるなら、神の霊は必ずあなたの中に入り、あなたは新しく生まれます。あなたが心を開いて、主イエスを救い主として受け入れるなら、神の霊はすぐにあなたの中に入り、あなたに神の命を得させるのです。

 一つのたとえを示しましょう。この電球には今あかりがありません。しかしわたしがスイッチを入れれば電気はすぐ電球の中に入り、電球は明るくなります。同じように、わたしたちが心のとびらを開きさえすれば、聖霊はすぐにわたしたちの中に入り、わたしたちに神の命を得させるのです。

 ある人は、神の命がわたしたちの中に入るという事は、あまりにも捕らえ難い事であると言うかもしれません。ある人は、それは少し迷信に近いと言うかもしれません。ところがみなさん、これはとても実際的で、非索に確実な事なのです。わたしたちが知っているように無線というものがあります。もし二百年前に、だれかがアメリカで話をして日本ですぐ聞けると言ったとしたら、みな、それはでたらめだ、迷信だと言ったことでしょう。ところが今日、これはとても実際的です。あなたがここでラジオのスイッチを入れれば、空中にある電波はすぐ中に入り、それは声になります。

 人が心から悔い改め、心から主イエスに祈り、自分の心のとびらを開き、主イエスを自分の救い主として受け入れる時、彼の中には一つのラジオがありますから、聖霊は電気のように彼の中に入り、彼に主イエスの命、すなわち神の命を得させることができるのです。ただ、どんなものでもあなたかそれに触れるには、必ず正しい器官と方法とによらなければなりません。あなたがもし器官や方法を間違えるなら、それに触れることはできません。例えば、声は必ず耳という器官と聞くという方法で触れなければなりません。においは必ず鼻という器官と、かぐという方法で触れなければなりません。空気は必ず気管と呼吸とによって触れなければなりません。そうでなければそれはあなたにとつて無いのと同じことです。

 同じように、わたしたちが神に触れて神の命を得るのには、必ず正しい器官と方法とによらなければなりません。神は霊です。わたしたちがもし頭脳という器官と思考という方法で神を考えるならば、いつまでも神に触れて命を得ることはできません。もしかしたらあなたが考えれば考えるほど神はなく、考えれば考えるほど神の命は漠然としてしまうかもしれません。神は霊であり、神の命も霊的なものですから、人が神に触れ彼の命を得るのには必ず心の霊という器官と、信じて祈るという方法によらなければなりません。神と神の命はわたしたちの目では見えず、手では触れることはできませんが、わたしたちの心の霊によって触れることができ、感じることができるのです。

 あなたが、今もしあなたの心の霊の中の感覚に従って神に対して罪を告白し、イエス・キリストに祈り、あなたの心の霊で主イエスを救い主として信じて受け入れるならば、あなたは必ず心の中で神に触れ、神の命を得ることができます。神の命があなたの中に入ればあなたは新しく生まれます。

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新しく生まれた結果

 人が新しく生まれ、神の命を得るとき、少なくても四つの結果が生じます。

 一、彼の中に命の変化が起こります。人の命は悪く、神の命は良いです。神の命が人の中に入れば、必ず人の中で変化が起こり、人は変えられてしまいます。酸っぱい果実の木であるわたしたちに、神のせい命を接げば必ず内側が甘く変わり、甘い実を結ぶようになります。

 二、霊の事を知ることができます。この知るというのは知識ではなくて命です。頭の中のことではなくて、霊の中のことです。頭で知るのではなくて霊の中で感じるのです。新しく生まれた人は、頭の中で神に関するある事を知ることができないかもしれませんが、彼の霊はその事を感じることができるのです。

 三、神の国に入ることができます。新しく生まれた人だけが神の国を知ることができるので、ただ新しく生まれた人だけが神の国に入れます。新しく生まれた人は、今日霊の中だけで神の国にいますが、将来は人のすべての部分、魂も体もみな、神の国に入ることができるのです。

 四、永遠に滅びません。神の命があるからです。神の命は永遠ですから、人に神の永遠の命があれば、彼は永遠に滅びることがありません。

 ですから愛するみなさん、上流の人の必要は新しく生まれること、すなわち神の命を得ることです。あなたは新しく生まれましたか。もしまだでじたら 心を開き、心から信じ、心から祈り、心から主イエスをあなたの救い主として受け入れ、新しく生まれてください。切にお勧めします。

 ウオッチマン・ニーウイットネス・リー著: 「福音メッセージ集 第二集」pp.32-57、JGW日本福音書房

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