さいたまに在る教会ホームページ
さいたまに在る教会・さいたま召会・The church in saitama

ウィットネス・リー著:新約の結論(一)
神―彼のパースン

 このメッセージでわたしたちは神のパースンを考えます。神のパースンは神の存在にほかなりません。神のパースンに関する多くの特別な項目は旧約よりも新約において啓示されています。わたしたちが神のパースンのさまざまな面を考慮する時、どのような神がご自身をわたしたちに分与されたいのかを見るでしょう。あなたは、神がご自身をあなたの中へ分与なさりたいということを認識しているかもしれません。しかし、どのような神があなたの中へ分与されているのでしょうか? 実際、この質問に答えるのは非常に難しいです。  神の存在に関する異なる点は新約を通じてあちらこちらに見いだされます。このことを啓示する神の方法は、ある箇所に少し、他の箇所にもう少しと提示することです。それゆえ、マタイによる福音書、ヨハネによる福音書、そして新約の他のすべての書において、わたしたちは神のパースンに関する多くの項目を見いだします。これらの項目はジグソーパズルの破片と比較することができるでしょう。これらの小片を合わせると、完全な一枚の絵となります。わたしたちは、わたしたちへと分与しているのがどのような神であるかを表す絵を見るために、新約で見いだされる神のパースンに関するすべての項目を集め、それらを一緒にする必要があります。  新約において、神のパースンは明白な言葉と共に、たとえとしるしにおいて啓示されています。

A 明白な言葉において

 明白な言葉において、少なくともこれから述べる二十九の項目があります。

1 御父、御子、聖霊

 ご自身をわたしたちへと分与される神は、三一の神――御父、御子、そして聖霊です(マタイ二八・十九)。確かに、御父、御子、聖霊は三人の神ではありません。神は一であり、しかも三一です。

Top

三一の神の中へとバプテスマされる

 わたしたちはマタイによる福音書第二八章十九節で三一の神を見ます、「こういうわけで行ってすべての国民を弟子としなさい、父の、子の、聖霊の名の中へと彼らをバプテスマし込みなさい」。この節の中に、神聖な三一に対する一つの名があります――父の、子の、聖霊の名(単数)。名は彼のパースンに相当する神聖な存在の総合計です。ある人を三一の名の中へとバプテスマすることは、彼を三一の神であるすべての中へと浸し込むことです。

 マタイによる福音書とヨハネによる福音書の二冊の書には、神の選びの民が分け前にあずかり、享受するための神聖な三一について、聖書の他のすべての書よりも完全に啓示されています。ヨハネによる福音書は、特に第十四章から第十六章にかけて、わたしたちの命の経験のための御父、御子、霊における神格の奥義を啓示します。マタイによる福音書は、王国の構成のために、三に対する一つの名における神聖な三一の実際を明らかにします。マタイによる福音書の最初の章では、聖霊(十八節)、御子キリスト(十八節)、父なる神(二三節)はエホバなる救い主として、そしてわたしたちと共にいる神として、そして三一の神の化身である人イエスを生み出す有り様について述べられています。第三章において、マタイによる福音書は、開かれた天の下でバプテスマの水の中に立っておられる御子、御子の上にはととして下りてこられる霊、そして天から御子に関して語られる御父の絵を提示しています(十六―十七節)。第十二章において、人のパースンにおける御子は、父なる神の王国をもたらすために霊によって悪鬼どもを追い出されます(二八節)。第十六章において、御子は御父によって弟子たちに、召会の建造のために啓示されます(十六―十九節)。第十七章において、王国の出現の縮小版として(十六・二八)、御子は変ぼうし(二節)、御父の喜ぶ言葉(五節)によって確認されました。結局、終わりの章で、最後のアダムとしてのキリストは十字架の手順を経過して、復活の領域に入り、命を与える霊となった後、復活の雰囲気と実際の中で弟子たちのところへ戻ってこられました。そして彼らに、異教徒たちを三一の名とパースンと実際の中へとバプテスマすることによって、王国の民とするように命じられました。マタイによる福音書によると、このような御父と、御子と、霊の実際の中へとバプテスマすることは、天の王国の構成のためです。天的な王国は、地的な社会のように肉と血である人の存在(Tコリント十五・五〇)で組織されることはできません。それは三一の神の結合へと浸し込まれ、そして彼らの中に造り込まれる三一の神によって確立され、建造された人々によってのみ構成されます。

Top

キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり

 三一の神を啓示するもう一つの節は、コリント人への第二の手紙第十三章十四節です。「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとがあなたがた一同と共にあるように」。主の恵みは、わたしたちの享受のための命としての主ご自身です(ヨハネ一・十七、Tコリント十五・十)。神の愛は主の恵みの源としての神ご自身です(Tヨハネ四・八、十六)。聖霊の交わりは、わたしたちの分け前のための神の愛を伴った、主の恵みの伝達としてのその霊ご自身です。これらは三つの分離した事柄ではなく、一つの事の三つの面です。それはちょうど主、神、聖霊は三つの分離した神でなく、三つの「一つの同じ、分かれていない、また分けることのできないヒュポスタシス」の神なのです(Philip Schaff)。神は起源ですから、神の愛は源です。主の恵みは神の愛の進路です。それは主は神の表現であるからです。その霊の交わりは神の愛を伴う主の恵みの分与です。それは、その霊は、その神聖なもろもろの美徳を伴う三一の神を、わたしたちが経験し、享受するための、神を伴う主の伝達だからです。ここで、主の恵みが第一に述べられています。なぜならコリント人への第二の手紙は、キリストの恵みに関するものだからです(一・十二、四・十五、六・一、八・一、九、九・八、十四、十二・九)。

 コリント人への第二の手紙第十三章十四節は、神格の三一は組織神学の教理上の理解のためではなく、三一の中の神ご自身を、彼の選び贖った人々の中へと分与し込むためであるということの強い証拠です。聖書においては、三一は決して、単に教理として啓示されてはいません。むしろ、それは常に神と彼の被造物、特に彼によって創造された人、またさらに彼の選び贖われた人々との関係について啓示され、また述べられています。創造に関する神の神聖な啓示において使われている最初の神の称号、ヘブル語の「エロヒム」は複数形です(創一・一)。それは、人のための天地の創造主としての彼は三一であることを意味しています。そして彼は宇宙を三一において造られました。人を彼ご自身の形に、彼ご自身の姿に創造されたことに関して、彼は「われわれ」と「われわれの」という複数の代名詞を使われました。そして、これは三一に言及しており(創一・二六)、また彼は人と一つになり、そして彼の三一において、人を通して彼ご自身を表現することを意味しています。後に、創世記第三章二二節と第十一章七節とイザヤ書第六章八節において、彼は人と彼の選んだ人々との関係について「われわれ」として、何度も何度も彼ご自身に言及されました。

 人を贖うために、すなわち彼がやはり人と一つである立場を持つために、彼は御子にあって、またその霊を通して(ルカ一・三一―三五)受肉され(ヨハネ一・一、十四)、一人の人となられました。そして御子にあって(ルカ二・四九)、またその霊によって(ルカ四・一、マタイ十二・二八)地上で人の生活をされました。地上での彼の務めの初めにおいて、御父は人々に届くため、また彼らをご自分に連れ戻すために、御子をその霊をもって油塗られました(マタイ三・十六―十七、ルカ四・十八)。彼が肉体において十字架につけられ、そして復活されて命を与える霊となられる直前(Tコリント十五・四五)、彼は彼の奥義的な三一を彼の弟子たちに明白な言葉で啓示されました(ヨハネ十四―十七章)。それは、御子は御父にあり、また御父は御子の中にあること(十四・九―十一)、その霊は御子の変ぼうであること(十四・十六―二〇)、同時同存し、相互内在される三一は、信者たちの享受のため彼らと住まわれること(十四・二三、十六・七―十、十七・二一―二三)、そして御父が持っておられるすべては御子のものであること、また御子が所有しておられるすべてはその霊によって受け取られ(十六・十三―十五)信者たちに啓示されることを述べています。そのような三一の神は、手順を経られた神を彼の信者たちへ分与し込むことに全く関係があります(十四・十七、二〇、十五・四―五)。それは彼らが三一の神の中で、三一の神と一となるためです(十七・二一―二三)。

 復活の後、彼は諸国民を弟子たちとし、彼らを父、子、聖霊の名の中へとバプテスマし込むよう、弟子たちに命じられました(マタイ二八・十九)。わたしたちが指摘してきたように、これが信者たちを三一の神へと、受肉、人の生活、十字架を経過し、復活へと入られた方、手順を経られた神との有機的結合へともたらすことです。コリント人への第二の手紙の結びにおいて、同使徒は彼らをその霊の交わりを通し、御父の愛をもって、御子の恵みの分け前の中で、祝福された三一をもって彼らを祝福しました。それは、このような有機的結合に基づいています。この三一の中で父なる神は、キリストのからだである召会のすべての肢体の中で、子なる神、主のもろもろの務めを通し、その霊なる神のもろもろの賜物によってすべての事を働かれます(Tコリント十二・四―六)。

Top

エペソ人への手紙で啓示されている三一の神

 エペソ人への手紙における神聖な啓示全体は、キリストのからだとしての召会が生み出されること、存在すること、成長すること、建造されること、戦うことについてであり、キリストのからだとしての召会は、神聖なエコノミー――三一の神がキリストのからだの肢体に分与することによって構成されます。第一章は、どのように父なる神が、永遠においてこれらの肢体たちを選び、あらかじめ定められたか(四―五節)、子なる神が彼らを贖い(六―十二節)、その霊なる神が彼らに担保として証印を押されるかを啓示しています(十三―十四節)。このように、彼ご自身を彼の信者たちの中へと分け与えられるのは、キリストのからだ、すべての中ですべてのものを満たしている方の豊満である召会を形成するためです(十八―二三節)。第二章はわたしたちに、神聖な三一において、ユダヤ人と異邦人のすべての信者が子なる神を通して、その霊なる神の中で、父なる神へと近づくことを示しています(十八節)。これは、この三は受肉、人の生活、十字架、復活のすべての手順を経た後でさえ、常に、同時同存し、相互内在していることを示しています。第三章において、使徒は、どうか父なる神が霊なる神を通し、信者たちを内なる人の中へと増強してくださるように、またキリスト、子なる神があなたがたの心の中にご自身のホームを造ることができるように、そして彼らの全存在が占有され、満たされて、手順を経た三一の神の全豊満へと至るようにと祈りました(十四―十九節)。これが彼の完全な表現のためにキリストの中で信者たちによって経験され、分け与えられる三一における神の絶頂です。第四章は、その霊として、主として、御父として手順を経た神がどのようにキリストのからだと混ざり合わされるかを描写しています(四―六節)。それは、そのすべての肢体たちによって神聖な三一が経験されるためです。第五章は、信者たちに霊なる神の歌をもって、子なる神である主に賛美をささげ、子なる神、主イエス・キリストの名の中で、父なる神に感謝をささげるようにと熱心に勧めます(十九―二〇節)。これは三一の神としての彼をわたしたちが享受するために、彼の神聖な三一における手順を経た神を、賛美し感謝することです。第六章は、わたしたちに子なる神である主の中で力づけられ、父なる神のすべての武具を身に着け、その霊なる神の剣を用いて霊的な戦いを戦うように指示します(十―十一、十七節)。これは信者が霊的な戦いの中でさえ三一の神を経験し享受することです。

Top

ペテロの第一の手紙と啓示録における三一の神

 ペテロは彼の書の中で、信者たちが父なる神の選びへと、その霊なる神の聖別へと、そして子なる神、イエス・キリストの血による贖いへともたらされることを述べることによって、この信者たちの享受のための三一の神について確証します(Tペテロ一・二)。

 使徒ヨハネも、手順を経た三一の神が信者に分け与えられるため、神聖な三一の啓示を強めます。啓示録で、彼は各地にある召会に、今である、昔であった、後にこられる父なる神から、また御座の前の七つの霊、霊なる神から、またイエス・キリスト、あの忠実な証し人、死人の中から最初に生まれた方、そして地上の諸王の支配者である子なる神から、恵みと平安とがあるようにと祝福します(一・四―五)。ヨハネの諸召会へのこの祝福は、永遠の父としての彼であるすべて、七倍に強化された霊として彼のできるすべて、そして油塗られた御子として彼が到達され、獲得されたすべてにおける手順を経た三一の神は、信者の享受のためであり、それは彼らが金の燭台として彼の団体的な証しとなるためです(一・九、十一、二〇)。

 それゆえ、創世記から啓示録までの聖なる御言の中で神格の三一の神聖な啓示は、神学の勉強のためではなく、どのようにして奥義的で驚くべき三一にある神が、ご自身を選びの民の中へと分与されるかを理解するためであることは明白です。それは、わたしたち、彼が選び、贖われた民として、コリント人への第二の手紙第十三章十四節にあるコリントの信者たちへのパウロの祝福で示されているように、現在も、そして永遠までも、三一の神にあずかり、経験し、享受し、所有するためです。

 三一の神に関して、啓示録第一章四節と五節は言います、「恵みと平安とが、今である、昔であった、のちにこられる方から、また御座の前の七つの霊から、またイエス・キリスト、あの忠実な証し人、死人の中から最初に生まれた方、そして地上の諸王の支配者から、あなたがたにあるように」。「今である、昔であった、のちにこられる方」は永遠の父なる神です。御座の前の七つの霊は神の活動する霊、その霊なる神です。神に対して忠実な証人、召会に対して死人の中から最初に生まれた方、そしてこの世に対して地上の諸王の支配者であるイエス・キリストは子なる神です。これは三一の神です。永遠の父としての神は、過去におられ、現在おられ、将来こられる方です。その霊なる神として、彼は神の活動のために七倍に強化された霊です。子なる神として、彼は神の証人、証し、表現であり、新創造である召会にとって、死人の中から最初に生まれた方であり、この世にとって、地上の諸王の支配者です。このような三一の神から、恵みと平安とが諸召会に分け与えられています。

 啓示録第一章四節の七つの霊は、確かに、神の霊です。なぜなら、彼らは四節と五節で三一の神の間に位置づけられているからです。七は神の活動、神の動きにおける完成の数ですから、七つの霊は地上での神の動きのためであるに違いありません。本質と存在において、神の霊は一です。強化された機能と神の活動の働きにおいて、神の霊は七倍です。それはゼカリヤ書第四章二節の燭台のようです。存在において、一つの燭台が立っています。しかし機能において、七つのともし火が輝いています。

 マタイによる福音書第二八章十九節で、三一の神の順序は、御父、御子、聖霊です。ここでは順序が変わっています。神の七つの霊は三番目でなく二番目に置かれています。これは衰退した諸召会の暗い状況の中で、神の七倍の霊の強化された機能の重要性を啓示しています。この点は、第二章七節から十一節、十七節、二九節、第三章六節、十三節、二二節、第十四章十三節、第二二章十七節において、その霊の語りかけについて繰り返し強調されることによって確証されます。

 ほとんどの書簡の開始で、御父と御子だけが述べられていて、彼らから恵みと平安が受取人に与えられます。しかしながら、啓示録第一章四節と五節では、その霊も含まれていて、彼らから恵みと平安が諸召会に分け与えられます。これもまた、諸召会の衰退の中で、神の動きのための神の霊の決定的な必要を表しています。

Top

様態論と三神論と聖書的な三一の神の純粋な啓示

 新約はわたしたちの神が三一であることを啓示します。何世紀にもわたって、三一に関する教えは、様態論と三神論と聖書的な三一の神の純粋な啓示の三つの学派があることを明らかにしてきました。様態論は御父、御子、その霊はすべて永遠ではなく、すべてが同時に存在することもなく、ただ一人の神が三つの時期に現れたと教えます。三神論は御父、御子、その霊は三人の神であると教えます。わたしたちは様態論とかかわり合うべきではありません。なぜなら、そのような三一の極端な見方は異端であるからです。三人の神を教えることも大いなる異端です。

 神の創造における自然の法則によれば、均衡の法則があります。すべてのものは二つの側面がなくては存在できません。例えば、地球は二つの力があるゆえに存在します。遠心力は地球を離れさせるのですが、求心力はそれを元に戻します。これが力の均衡です。聖書にあるすべての真理にも二つの側面があります。聖書の真理を適切に保持するためには、わたしたちはその両方の側面を保持しなければなりません。聖書にある三一の神の純粋な啓示は、様態論の極端と三神論の極端の中央に位置を占めています。

 聖書の中の真理は二つの側面を持っているので、三一についても二つの面があります。それは一で三の面と三で一の面です。様態論は三で一の側面の極端です。もちろん、聖書における立場は三で一の側面です。しかし様態論は極端になり、聖書の制限をはるかに越えてしまい、一で三の側面を無視するまでになっています。様態論は、一の面に関して、聖書の制限の範囲を越えてしまったので、それは一に片寄った極端な異端です。三神論は反対の極端であって、三の極端です。三神論は三の側面を強調し、三の面に関する聖書の制限の範囲を越えていて、一の側面を無視しています。御父、御子、その霊は確かに三ですから、それもまた聖書の立場です。しかし三神論も様態論のように、また聖書の制限の範囲を越えて異端になりました。それゆえ、様態論も三神論も両極端であり、それらは異端です。

 聖書はこれらの極端のどちらでもありません。それは中央に位置していて、三一の真理が二重であることを証明しています。この事柄において、聖書は均衡が取れています。神の創造における均衡の原則に忠実な聖書は均衡が取れ、中心にあります。それは極端にはなりません。三一の神の真理に関して、わたしたちもまた均衡が取れ、様態論と三神論の両方の異端の極端を避けなければなりません。

 長年にわたって、わたしは三一の神に関する多くのメッセージをしてきました。もしこれらのメッセージの中のある文章だけを文脈からはずして取り出すなら、それはわたしが様態論を教えているように見えるかもしれません。しかしながら、もし他のある文章だけを文脈からはずして取り出すなら、それはまた、わたしが三神論を教えているように見えるかもしれません。もちろん、わたしは様態論も三神論も教えていません。

 神聖な三一を教えることで、かつてのリーダーであったアウグスチヌスは、ある時は様態論者として告発され、他の時は三神論者として告発されました。彼は御父、御子、その霊は一人の神であって、三人の分離した神ではないと教えたので、彼は様態論の教えであると告発されました。しかし彼は神は三――御父、御子、聖霊――であると強力に強調したので、彼はまた三神論の教えであると告発されました。同じように、わたしたちは聖書から神が絶対に一であることを啓示し、御子は父(イザヤ九・六)、そして御子はその霊(Tコリント十五・四五、Uコリント三・十七)とさえ呼ばれていることを指摘する時、わたしたちは様態論の教えであると不正に告発を受けました。しかし、わたしたちの書物が公正に完全に考慮される時、わたしたちは様態論も、三神論もどちらも教えているのでなく、聖書にしたがって三一の神の純粋な啓示を教えていることがはっきりするでしょう。

 様態論の間違いは何でしょうか? 様態論は、御父、御子、その霊はすべて永遠ではなく、すべてが同時に存在しないと教えます。様態論は、御父は御子の来られることで終わり、御子はその霊の来られることで終わったと主張します。様態論者は、神格の三の存在は三つの連続した段階においてであると言います。彼らは御父、御子、その霊の同時同存と相互内在を信じません。彼らと違って、わたしたちは神格の三の同時同存と相互内在を信じます。わたしたちは御父、御子、その霊はすべて本質的に同時に、そして同じ状態の下で存在することを信じます。神聖なエコノミーにおいては、三は三つの連続した段階でそれぞれが働き、現れるのですが、そのエコノミー的な働きと現れにおいてでさえ、本質的に、三は、なお同時同存と相互内在の中にあります。御父はわたしたちを御子の中で、その霊を通して選ばれました(エペソ一・四、Tペテロ一・二前半)。御子は贖いをわたしたちのために、御父と共に、その霊によって達成されました(ヨハネ八・二九、ヘブル九・十四)。その霊は、御子として(ヨハネ十四・二六、Uコリント三・十七)御父と共に(ヨハネ十五・二六)わたしたちの内で働かれます。彼らの働きと現れはエコノミー的であり、彼らの同時同存と相互内在は永遠です。三のすべては本質的に永遠です。イザヤ書第九章六節は、御父は永遠であると言い、ヘブル人への手紙第一章十二節と七章三節は、御子は永遠であることを示し、ヘブル人への手紙第九章十四節は、永遠の霊について語ります。それゆえ、御父、御子、その霊は彼らの存在、実在において、連続的ではなく永遠です。

 神は唯一であり、三――御父、御子、その霊――です(マタイ三・十六―十七、二八・十九、Uコリント十三・十四、エペソ二・十八、三・十四―十六、啓一・四―五)。神格は区別のある三ですが、確かに、御父、御子、その霊は三人の分離した神ではありません。新約はわたしたちに明確に神は一であると告げています(Tコリント八・四、Tテモテ二・五)。

 あるクリスチャンは御父は一人のパースンであり、御子はもう一人のパースンであって、その霊は単なる力にすぎないと信じています。他の信者は、神格の三――御父、御子、その霊――は三人の分離した神であると信じています。これらの観念は異端的です。聖なる言葉の神聖な啓示にしたがって、わたしたちは、わたしたちの神はユニークに一であると信じます。わたしたちは三一である唯一の神を持っているのです。

 わたしたちの知性は制限があるので、わたしたちが三一の神を完全に説明することはできません。事実、わたしたちは自分自身でさえはっきりと定義することはできません。それなら、どうしてわたしたちが三一の神を適切に、そして完全に定義することができるでしょうか? これは不可能です。わたしたちは、ただ新約において明らかに啓示されていることを信じることができるだけです。神は一ですが、三一です。

Top

区別されるが分離されない

 今日の根本的な聖書教師たちは、たぶん無意識のうちに、実際には、三神論的であることは確実です。これらの教師たちは御父、御子、その霊が区別されていることだけでなく、分離されているとも言います。わたしたちは御父、御子、その霊は区別されると言うことはできますが、彼らが分離されていると言うことはできません。わたしたちは御子と御父を分離すること、また御父と御子をその霊から分離することはできません。なぜなら三のすべては同時同存しており、相互内在しているからです。ヨハネによる福音書において、御子は御父の中におり、御父は彼の中にいる、と主は言われました(十・三八、十四・十―十一)。御子は御父の中におられ、御父は御子の中におられるのなら、どうして彼らは分離されることができるでしょうか? 主イエスはまた彼と御父は一である、と言われました(ヨハネ十・三〇)。これは御父と御子が区別はあるが分離され得ないことの一層確かな証拠です。御父、御子、その霊には区別がありますが、分離されません。なぜなら彼らは三であり、なお一であるからです。

Top

わたしたちの中にいます三一の神

 わたしたちは、ご自身をわたしたちに分与しておられる神は三一であることを見る必要があります。あなたがたは、三一の神があなたの中におられるのを知っていますか? 新約によれば、御父、御子、その霊はすべてわたしたちの中におられます(エペソ四・六、コロサイ一・二七、ヨハネ十四・十七)。御父、御子、その霊すべてはわたしたちの中におられるのですが、わたしたちの経験によれば、わたしたちの中にはただ一人の方がおられると感じます。わたしたちの中に住んでおられるこの方こそ三一の神です。

 マルチン・ルターは、神聖な三一の事柄を理性にしたがって研究しないようわたしたちに警告しています。

 わたしたちはこのような問題では、ただ単純さの中で生活すべきであり、深くて果てしなく広がる議論の海に乗り出していくべきではありません。なぜなら、この問題(神聖な三一)は正確につかみにくいものだからです。それはまずその問題自体が微妙であることと、もう一つは人の弱さによるものです。したがって、これらの問題をもっとつぶさに調べたいと思うこと自体、全く愚かなことであり、しかも極めて危険な仕事なのです。なぜかというと、もしわたしたちにこのことができたとすれば、わたしたちは導きを得るために、聖書を読む必要がなくなってしまうからです。教師や王もわたしたちには必要のないものとなってしまうでしょう。それに、聖書を軽んずる人たち、また自分の思考力に自信があり、このような問題を研究しようとする人たちは神を教える教師たちであって、もはや神から教えを受ける者ではありません……もし理性がここであなたの邪魔をして、次のような問題が生じたとします……「では、神は二人なのでしょうか?」 その答えはこうです、「神はおひとりですが、やはり御父と御子はおられます」。「どうしてこのようなことがあり得るのでしょうか?」 へりくだってこう答えなさい、「わたしにはわかりません」……

 わたしには神聖な三一を適切に説明することなどできません。わたしはただ三一の神が、彼の三一において、わたしたちの存在にご自身を分与しつつあるというこの神聖な事実に、あなたがたがみな印象づけられるように、新約からこの大いなる真理に関する事実を提示しているだけです。あなたがたは自分の知性を活用しすぎて、それを研究してはいけません。むしろ、霊を活用して、御父、御子、霊としての三一の神の驚くべき分与を経験し、享受しなさい。

Top


 このメッセージで、わたしたちは引き続き神のパースンについて見てみましょう。

2 わたしたちの主イエス・キリストの神と父

 エペソ人への手紙第一章三節で、パウロは神のことを「わたしたちの主イエス・キリストの神と父」と呼んでいます。イエス・キリストは神であられるのに、なぜパウロはイエス・キリストの神と言うのでしょうか? 神がどうして彼の神となり得るのでしょうか? さらに、パウロはイエス・キリストの父とも言います。神であられるキリストがどうして父を持つことができるのでしょうか? 神は人の子としてのわたしたちの主イエス・キリストの神であり、神の御子としてのわたしたちの主イエス・キリストの父でもあられます。主の人性によれば、神は彼の神であり、主の神性によれば、神は彼の父であるのです。

 エペソ人への手紙第一章三節における、新約の神に対するパウロの賛美は、深くて、深遠です。それは新約のエコノミー全体を包括しています。ここで、わたしたちは「神」という呼び名に暗示されている創造だけでなく、「わたしたちの主イエス・キリストの神」という呼び名に暗示されている受肉を持っています。聖書における神についての最初の啓示は創造の中にあります。なぜなら、聖書は「はじめに神は……創造された」という言葉で始まっているからです。創造に続いて、受肉があります。ある日、創造主である神は受肉されました。神と共にあり、神であった言が肉体となった(ヨハネ一・一、十四)とは、人になったということです。神ご自身が人となられた時、万物を創造された神は彼の神となられました。「わたしたちの主イエス・キリストの神」とは、主イエスが人であったということです。もし彼が単に神であったとすれば、神は決して彼の神となることはできなかったでしょう。神が彼の神となるために、彼は人とならなければなりませんでした。このために受肉が必要だったのです。ユダヤ人たちが礼拝する神は、受肉された神ではなく、創造主なる神にすぎません。わたしたちは、今日、創造主なる神を礼拝しているのではなく、受肉した神を礼拝しているのです。受肉において、創造主なる神はまさに人なるイエスの神となられました。同時に、神はまた神の御子なるキリストの父となられました。キリストの人性において、神は彼の神であり、キリストの神性において、神は彼の父です。

 さらに、「神」という呼び名が創造を意味するように、「父」という呼び名は命の分与を意味しています。このことが、主の復活において、実際に起こりました。主が復活された日に、ヨハネによる福音書第二〇章十七節で、主がマリヤに語られた言葉は、神が彼の父であるだけでなく、信者の父でもあることを示しています。父なる神が彼の信者たちの父となるのは、彼の復活を通してです。これこそ、御父が彼の多くの子供たちに命を分与することです。

 エペソ人への手紙第一章十七節で、パウロは続けて「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父」と言っています。彼は三節では、神と父を一緒にして、わたしたちの主イエス・キリストの神と父と言いました。ところが、ここにおいて、彼は「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父」と、両者を分けて述べています。受肉において、神ご自身である(ピリピ二・六)主イエス・キリストは人となられました。彼は人として、神の創造と関係があります。ですから、創造主なる神は、彼の神なのです。彼の受肉は、創造主なる神を、神の被造物である人の中にもたらしました。「わたしたちの主イエス・キリストの神」という呼び名は、創造主なる神が人の中に入られたことを暗示しています。わたしたちが神をこのように言う時はいつでも、神は単に彼の被造物なる人の外側におられる創造主ではなく、彼が人性の中にもたらされたことを暗示しています。堕落した被造物であるわたしたちは贖われました。受肉は、神がわたしたちの享受となられることを示しています。わたしたちが神を享受できるのも、神がわたしたちを贖うために、人性の中に入ってこられたからです。神性は、イエスにあって、わたしたちの享受となります。

 神の創造のみわざによって、神は創造主となられました。創造の後、神は受肉という階段を踏むことによって、神の被造物である人の中に入って来られました。受肉により、また受肉において、創造主と被造物は一つになったのです。主イエスは地上におられた時、神と人とを結び合わせておられました。十字架を通して、主は贖いを達成されました。その結果、堕落した被造物であるわたしたちは贖われたのです。ところが、ユダヤ人たちには神の受肉や贖いの観念はありません。しかしながら、わたしたちクリスチャンは創造、受肉、贖いにおける神を持っています。わたしたちはユダヤ人たちよりも何と多く持っていることでしょう! 

 ヨハネによる福音書第二〇章十七節で、主は次の言葉を彼の兄弟たちに告げるようマリヤに話しました、「わたしはわたしの父すなわちあなたがたの父、またわたしの神すなわちあなたがたの神に昇る」。これは復活した人としての主は、神を彼の神として、また御父を彼の父として受け取っているということです。その上、この節はまた、彼の父と神が彼の信者たちの父と神となられたことを啓示しています。

 なぜ主はマリヤに、自分は御父と神の所に昇ると言われたのでしょうか? 一方で、主は神の御子です。ですから、彼は御子のパースンの中で御父を見ていました。もう一方で、彼は依然として人の子です。ですから、彼は人のパースンの中で神を見ていたのです。彼の信者であるわたしたちも、一方で人であり、もう一方で神の子供たちです。わたしたちは人であるゆえに、神はわたしたちにとって神です。わたしたちは神の子供たちですから、神はわたしたちにとって父でもあります。わたしたちは、今や、人と神の子供の両方であるのですから、わたしたちは神と父の両方を持っています。

 人として、すべての信者は、主の復活を通し、主にとっては兄弟たち、御父にとっては子供たちとなりました。なぜなら、彼らは主と同じ命を得たからです。彼の命を分与する死と復活を通して、主はご自身と信者たちとを一つとされました。ですから、主の御父は彼の信者たちの父であり、主の神はまた彼らの神なのです。主の復活において、彼が持っているのと同じように、彼らも御父の命と神の性質の両方を持っています。彼らを主の兄弟たちとするために、彼は御父の命と神の性質を彼らの中へと分与されました。彼の父と神を彼らの父と神とするために、彼は御父と神の前で、彼らを彼の身分――御子の身分――へともたらされたのです。こうして、内側では命と性質において、外側では身分において、彼らは彼と同じです。

 ヨハネによる福音書第二〇章十七節、エペソ人への手紙第一章三節、十七節と啓示録第一章六節は、すべて主の昇天の後に書かれました。わたしたちはすでに見てきましたように、ヨハネによる福音書第二〇章十七節で、主は彼の父と神の所に昇ろうとしておらました。エペソ人への手紙第一章三節と十七節で、パウロはわたしたちの主イエス・キリストの神を述べています。さらに、啓示録第一章六節は、キリストは「わたしたちを王国とし、彼の神また父への祭司としてくださった」と言います。ヨハネによる福音書第二〇章十七節やエペソ人への手紙第一章三節と十七節にあるように、「彼の神」は、人としての主と神との関係を述べており、「彼の父」は、御子としての主と御父との関係を述べています。そういうわけで、新約は、わたしたちを創造し、贖われた神、またご自身をわたしたちの中に分け与え、分与しておられる神は、わたしたちの主イエス・キリストの神と父であるという事実を強調するのです。

Top

3 栄光の神

 聖書において、栄光とは表現された神です。神が表現される時はいつでも、それは栄光です。神が見えず、隠されている時はいつでも、表現された栄光はありません。神が見られる時に、栄光があります。あなたは彼の栄光を見ずに、神を見ることは決してできません。見えない神は神であり、見られる神は栄光です。イスラエルの子たちがエジプトから良き地へと旅をしている間、神の栄光は見られました(出十三・二一)。昼には、神は雲として見られ、夜には、火の柱として見られましたが、それが栄光でした。ヨハネによる福音書には、言は神であった、そして言は肉体となって、わたしたちの間に幕屋を張られた、そこでわたしたちは彼の栄光をよく見た(ヨハネ一・一、十四)と書いてあります。ヨハネによる福音書第一章十八節は言います、「神を見た者はだれもいない。父の懐におられるひとり子、彼が彼を明らかに示したのである」。神が明らかに示される時、栄光があります。わたしたちが神を見る時、それは栄光を見るのです。

 使徒行伝第七章二節で、ステパノがサンヒドリンの前で証ししていた時、このように言いました、「栄光の神はわたしたちの父アブラハムに……現れました」。この栄光は、イスラエルに現れ(出十六・十、二四・十六―十七、レビ九・二三、民十四・十、十六・十九、二〇・六、申五・二四)、また幕屋や宮を満たした(出四〇・三五、列王上八・十一)雲や火のように、見える栄光であったのかもしれません。アブラハムに現れ、彼を召されたのも、このような栄光の神でした。神の栄光によってアブラハムは大いに引き付けられたことでしょう。それは彼をしてこの世から神へと分離させ、聖別させました(出二九・四三)。それはまた、彼を神に従わせた大いなる励ましであり、また力でもありました(創十二・一、四)。

 栄光の神についてのステパノの言葉は、神の新約のエコノミーと一致しています。ペテロの第二の手紙で、ペテロは、神はわたしたちを神の栄光によって、また神の栄光へと召されたと言います(Uペテロ一・三)。わたしたちは、わたしたちの救い主なる神の栄光によって召されたがゆえに(Uペテロ一・一)、わたしたちはついに主イエスを受け入れ、彼が何よりも、まただれよりもまさっていることを認識したのです。

 栄光の神はアブラハムを召されると、彼はその栄光に引き付けられ、捕らえられてしまいました。原則は、今日、わたしたちについても同じです。わたしたちはみな主の栄光によって捕らえられました。わたしたちは主の栄光のとりことなりました。ある日、栄光の神は福音の宣べ伝えを通してわたしたちの所へやってこられました。わたしたちは引き付けられ、確信を与えられて、主を高く評価し始めました。そのようにして、栄光の神がわたしたちの中へとご自身の要素を少し注ぎ込まれたので、わたしたちは自然に神を信じたのです。栄光の神に引き付けられるとは、召された人々がそのことを知らない間に、あるいはそのことに気づかないうちに、神がご自身を彼らの中へと注入されることです。これは現代医学で行なわれているラジウム療法にたとえることができます。患者はエックス線の照射を受けている間、感じなくても光線が彼の体内に入り込んでいるのです。わたしたちは、神こそ最強の「ラジウム光線」であると言うことができるでしょう。もし彼のもとにしばらくの間とどまるなら、彼はわたしたちの中にご自身を注入されるでしょう。この注入によって内に浸し込み、浸透飽和がもたらされるでしょう。いったん、神がご自身をわたしたちの中へと注ぎ込まれると、わたしたちは逃れることができず、彼を信じないわけにはいかなくなります。

Top

4 栄光の父

 エペソ人への手紙第一章十七節で、パウロは「栄光の父」という用語を用いています。すでに指摘したように、栄光とは表現された神です。ですから、栄光の父は、彼の多くの子たちを通して表現された神です。「父」という称号は再生を暗示していますが、「栄光」という言葉は表現を暗示しています。ですから、「栄光の父」という称号には、再生と表現の両方を暗示していることになります。わたしたちは神によって再生されて、神の表現となりました。

 わたしたちはすでに再生されましたが、将来、わたしたちは栄光化されて、神の栄光を表現するでしょう(ローマ八・三〇)。多くの子供たちの再生と神の表現は神聖なエコノミーの完成です。主イエスは十字架で死ぬことによって、わたしたちのために贖いを完成されました。その結果、堕落した被造物であるわたしたちは贖われたのです。その時、わたしたちは再生されて、神の子供たちとなったのですが、その目的は神を表現することです。わたしたちが栄光化される、その日には、神がわたしたちの内側から完全に表現されるでしょう。こうして、わたしたちは完全に神の表現となるのです。

 ヘブル人への手紙第二章十節は、神は多くの息子たちを栄光へと導き入れると言います。神の偉大な救いの最終段階は彼の多くの息子たちを栄光へと導き入れることです。ローマ人への手紙第八章は、わたしたちに対する神の恵みのみわざは、あらかじめ知っておられた者たちをあらかじめ定めることで始まり、召すこと、義とすること、そして神がわたしたちを栄光化することで終わる(二九―三〇節)と、告げています。。ローマ人への手紙第八章は、全被造物は神の息子たちの出現、栄光化を切に期待しながら、彼ら自身も、神の子供たちの栄光の自由の中へと入るのを待ち望んでいる、と告げています(十九―二〇節)。これは主が再び戻ってこられる時に成就し(ピリピ三・二一)、その時、わたしたちも彼と共に、栄光のうちに現されます(コロサイ三・四)。これがわたしたちの望みです(コロサイ一・二七)。神の子供たちのこの栄光化は、神の救いの目標として、千年王国の間も継続し、新エルサレムにおいて、永遠にその豊満の中で現されるでしょう(啓二一・十一、二三)。

Top

5 天と地にあるあらゆる家族の父

 エペソ人への手紙第三章十四節と十五節は言います、「こういうわけで、わたしは父に向かってひざをかがめて祈ります。この方によって、天と地にあるすべての家族が名づけられています」。ここで、パウロは神と言わずに、父と言います。十四節における父は広い意味に使われていて、信仰の家族の父だけでなく(ガラテヤ六・十)、天と地にあるすべての家族の父をも象徴しています。父はわたしたち再生された信者だけの源ではなく、神が創造された人類(ルカ三・三八)、神が創造されたイスラエル(イザヤ六三・十六、六四・八)、神が創造された御使いたち(ヨブ一・六)の源でもあります。ユダヤ人の観念は、神はただ彼らの父である、というものでした。ですから使徒は、ユダヤ人が、ユダヤ人の観念にしたがって、イスラエルの父にだけ祈るのではなく、彼の啓示にしたがって、天と地にあるすべての家族の父に祈ったのです。

 エペソ人への手紙第三章十五節で「家族」と訳されたギリシャ語を、やはり家族を暗示した言葉として、「父であること」と訳しても良いでしょう。神は、天にある天使の家族と、地上でのすべての人の家族の源ですから、生産者が、自分の製品に名をつけ、父が、自分の子供に名前をつけるのと同じように、彼から、天と地にあるすべての家族は名づけられているのです。

 ルカによる福音書第三章三八節は、創造を通して、神は人類の父であられることを示していますが、それは、この節で、アダムが「神の子」と呼ばれているからです。これはアダムが神から生まれ、神の命を持っていたという意味ではありません。アダムは神によって創造されたため(創五・一―二)、神が彼の起源です。これに基づいて、彼は神の子であるとされました。それは異邦の詩人たちが、すべての人類は神の子孫であると考えたのと全く同じことです(使徒十七・二八)。彼らは神によって創造されただけであり、神から再生されたのではありませんでした。これはキリストを信じる信者たちが神の子たちであることとは、絶対的にまた本質的に相違しています。彼らは神から生まれて、再生し、神の命と性質とを所有しています(ヨハネ一・十二―十三、三・十六、Uペテロ一・四)。

 使徒行伝第十七章二八節で、パウロは言います、「なぜなら彼の中でわたしたちは生き、動きまた存在しているのであって、あなたがたのうちのある詩人たちでさえ、『というのはわたしたちはまた彼の子孫だからである』、と言っています」。「彼の中でわたしたちは生き、動きまた存在している」という言葉は、人の命と存在、また人の行動でさえ神からであることを示します。これは神から生まれ、彼の神聖な命と性質とを持ち、そして神のパースンの中で生き、存在し、また行動するキリストにある信者たちが行なうように、人が神の命を持ち、そして神の中で生き、存在し、また行動することを意味するものではありません。

 すべての人は、アダムが神の子と呼ばれたという意味からすれば、神の子孫なのです。神はすべての人の創造主、源ですから、天然的には彼らみんなの父です(マラキ二・十)。しかしそれは、彼がすべての信じる者たちの父であられ(ガラテヤ四・六)、彼らが霊の中で神によって再生された(Tペテロ一・三、ヨハネ三・五―六)という霊的な意味で言っているのではありません。

Top

6 御子と御子が父を啓示する人のほかだれも知らない方

 マタイによる福音書第十一章二七節後半で、主イエスは、「子と、子が父を啓示しようとする者のほか、だれも父を知る者はありません」と言います。ここで「知る」と訳されたギリシャ語は、単なる客観的な知っていることではなく、全き知識を指します。子について、父だけがそのような知識を持っておられます。また父に関しては、子だけがそのような知識を持っておられます。ですから、父を知るためには、子の啓示が必要とされます(ヨハネ十七・六、二六)。マタイによる福音書第十一章二七節の「しようとする、あるいは決意する」というギリシャ語は、協議を経た意志を熟慮した上で行使するという意味です。

 ヨハネによる福音書第十七章六節で、主イエスは御父に言われました、「わたしはあなたが世からわたしに与えてくださった人たちに、あなたの名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは彼らをわたしに与えられました、そして彼らはあなたの言葉を守りました」。あなたの名とは、まさに父の名を意味します。神という名とエホバという名は旧約では十分、人に啓示されてきましたが、父という名はそうではありませんでした。ただイザヤ書第九章六節、第六三章十六節、第六四章八節でわずかに述べられているだけです。旧約の時代に、神の民が知っていた神は、おもにエロヒムとしての神であり、もう一つは永遠の存在者としてのエホバです。しかし、彼らは父という呼び名をほとんど知りませんでした。御子は、御父が彼に与えた人たちに御父を現し、また御父の名を彼らに知らせるために(ヨハネ十七・二六)、御父の名の中で来て、働かれました(ヨハネ五・四三、十・二五)。その名は、御父を命の増殖と拡増のための命の源として啓示し(ヨハネ五・二六)、その方から多くの息子たちが御父を表現するために生まれるのです(ヨハネ一・十二―十三)。ですから、御子によって啓示された御父の名は神聖な命と大いに関係があります。わたしたちは御子による啓示を通してのみ、神聖な命の方法で御父を知ることができるのです。

Top

7 すべてのものの源

 天と地にあるすべての家族の父として(エペソ三・十四―十五)、神はすべてのものの源です。万物は彼から出てきました。ローマ人への手紙第十一章三六節は言います、「万物は彼から出、また彼を通し、また彼に帰するからである」。過去、万物は彼から出てきました。現在、万物は彼を通して存在しています。将来、万物は彼へと帰されます。万物は過去において彼から出て存在するようになりました。万物は現在において彼を通して存在しています。万物は将来において彼へと帰されます。万物は彼から出、彼を通し、また彼のためです。

 コリント人への第一の手紙第八章六節は言います、「わたしたちには一人の神、父がある、その方から出て万物はあり」。この節は、父であられる神が万物の源である、と再び告げています。ここの父は再生された信者の父としての神ではなく、万物の源としての神を指します。これは「その方から出て万物はあり」という言葉によって証明されます。ですから、神は父と呼ばれているのです。彼は再生された信者たちの父だけではなく、創造された全被造物の父でもあります。なぜなら、万物は彼から出てきたからです。

 ヘブル人への手紙第二章十節は、多くの子供たちを栄光へと導き入れる方はまた、「万物がその方のためであり、また万物がその方を通してである」方である、と告げます。神が多くの子供たちを栄光へと導き入れるには、天と地と万物が必要です。神が彼の目的を完成するために創造された万物は、現在、彼を通して存在し、将来、彼のためとなるでしょう。万物が神の目的にかなうために、宇宙において万物を保っておられるのは神です。

Top

8 霊の父

 ヘブル人への手紙第十二章九節で、神は霊の父と呼ばれています。「なおまた、わたしたちは訓練する者としてわたしたちの肉の父を持っており、わたしたちは彼らを尊んだのである。ましてやわたしたちは霊の父に一層服従して生きないであろうか?」。ここの「霊の父」は「わたしたちの肉の父」と対照的です。人の誕生において、わたしたちは肉の中で父から生まれました。ですから、彼らはわたしたちの肉の父です。ところが再生において、わたしたちは霊の中で(ヨハネ三・六)神から生まれました(ヨハネ一・十三)。ですから、彼はわたしたちの霊の父です。

Top


 このメッセージで、わたしたちは新約に啓示された神のパースンについて深い面を考えて見ていきましょう。

9 キリストのかしら

 コリント人への第一の手紙第十一章三節は言います、「しかしわたしはあなたがたに、すべての男の頭はキリストであり、女の頭は男であり、そしてキリストの頭は神であることを知ってもらいたいのである」。キリストは神に油塗られた方、神によって任命された方です。ですから、彼は神の下におり、創始者としての神が彼のかしらです。これは神聖な統治におけるキリストと神の関係を示しています。宇宙において、特に神の統治上の行政においては、秩序というものがあります。神はキリストの上にあってかしらであられます。キリストはすべての人の上にあってかしらです。男は女の上にあってかしらです。

Top

10 すべての人の救い主

 テモテへの第一の手紙第一章一節で、パウロは言います、「わたしたちの救い主なる神と、わたしたちの望みなるキリスト・イエスとの命令に従って立てられた、キリスト・イエスの一使徒パウロから」。救い主なる神(Tテモテ四・十、テトス二・十三)と、神なるわたしたちの救い主(Tテモテ二・三、テトス一・三、二・十、三・四)という二つの呼び名は、テモテへの第一の手紙とテモテへの第二の手紙とテトスへの手紙の三つの書物、神の新約のエコノミー(Tテモテ一・十五―十六、二・四―六、Uテモテ一・九―十、二・十、三・十五、テトス二・十四、三・五―七)に関する教えの堅固な基礎である神の救いを取り扱ったこれらの書物において特に用いられています。パウロが使徒になったのは、律法を与える神、要求する神にしたがって立てられたのではなく、このような救う神、救い主なる神の命令にしたがって立てられたのです。

 テモテへの第一の手紙第二章三節は言います、「これは神なるわたしたちの救い主が見てよしとし受け入れられたことである」。テモテへの第一の手紙において、パウロは救い主なる神を強調しています。ですから、この節で、彼は恵みの神とか、あわれみの神とか言わずに、救い主なる神、わたしたちを救う神と言っているのです。テモテへの第一の手紙第四章十節で、パウロはさらに「すべての人、特に信じる人たちの救い主であられる生ける神」と言っています。

 テトスへの手紙第一章三節で、パウロは再び「神なるわたしたちの救い主の命令」と言います。また、テトスへの手紙第二章十節で、彼は「神なるわたしたちの救い主の教え」と言います。わたしたちの救い主はキリストだけでなく、テトスへの手紙第二章十三節で示されているように、キリストに化身された三一の神でもあります。わたしたちの神なる救い主は、わたしたちを救うことを願っているだけでなく、真理の全き知識(Tテモテ二・四)を教えることを願っておられます。ですから、神なるわたしたちの救い主の教えがあります。最も卑しい人たちが彼の恵みによって救われ、造り変えられることによって、教えが飾られ、美しくされるでしょう。

 テトスへの手紙第三章四節で、パウロは「神なるわたしたちの救い主の、人に対する慈しみと愛とが現れた」とわたしたちに告げています。わたしたちを救い、わたしたちを他の人と異ならせたのは、神なるわたしたちの救い主の、人に対する慈しみと愛です。

 ユダの手紙二五節にも、わたしたちの救い主なる神を述べています。「すなわちわたしたちの救い主なる唯一の神に、わたしたちの主なるイエス・キリストを通し、栄光、尊厳、大能、また権威がすべての時の前に、また今も、そして代々永遠に至るまでもあるように、アーメン」。ここで、わたしたちはただ神だけが、わたしたちの救い主であることを見ます。このような神に、栄光、尊厳、大能、権威が代々にわたってありますように。栄光とは、表現、輝きであり、尊厳は誉れの中での偉大さ、大能は力の勢い、そして権威は支配の中の力です。

Top

11 信者たちのアバ父

 彼のパースンにおいて、神は信者たちのアバ父です。「アバ」はアラム語ですから、それはヘブル語です。「父」は「パテル」というギリシャ語を訳したものです。この言葉は、主イエスがゲッセマネで御父に祈っておられた時(マルコ十四・三六)、初めて使われたものです。ヘブル語とギリシャ語の組み合わせは、御父に向かって叫んだ時に、より強烈な愛情を表現しています。このような愛情に満ちた叫びは、正真正銘の息子と彼を生んだ父との間の、親密な命の関係を示しています。

 御父は命の源です。これはヨハネによる福音書第五章二六節の主の言葉で示されています。「父ご自身の中に命を持っておられる」。新約でも、特にヨハネによる福音書では、御父を命の源として示しています。人の家族でさえも、父はその家族の命の源です。一家族の父が命の源、命の初めであるように、御父という名は命の源としての御父を啓示しています。

 命の源として、御父は命を繁殖させ、増殖させるためです。御父の命は繁殖、増殖のためにあります。命の源として、また命の繁殖と増殖のためである御父から、多くの子たちが御父の表現のために生まれます(ヨハネ一・十二―十三)。

 御父という名は神聖な命と大いに関係があります。神聖な命を持っていなければ、神は御父となることはできません。どのようにして人は父となることができるでしょうか? それは、ただ命によってのみ可能です。父とは生産者です。父は造ることによってではなく、生むことによって生産します。父は生む命を持っています。それと同じように、御父は彼の命を通してわたしたちを生み出されました。わたしたちが御父を呼ぶ時はいつでも、わたしたちは、この呼び名が神の命によって実際となることを知ります。御父の命なくしては、御父という名は内容も実際もない、空虚な名でしかありません。

 御父という名の背後にある啓示とは何でしょうか? 父とは命の関係を持つための名です。わたしが「アバ父」と言うならば、それはわたしが彼の命を持っていること、わたしが御父から生まれたことを示します。新約で、神は多くの子たちを再生する御父として啓示されています。彼は命の源です、ですから、彼は御父です。彼の命をもって、彼らを再生させることによって、多くの息子たちを生み出すことが彼の意志です。マタイによる福音書で、主は弟子たちに、「天におられるわたしたちの父よ」(六・九)と言って、神を父と呼ぶように教えられました。わたしたちが神のことをわたしたちの父と呼ぶ時はいつでも、わたしたちは、彼がまことの父であることを知るべきです。彼はわたしたちの義理の父ではありませんし、わたしたちは彼の養子ではありません。わたしたちの父は命による父ですから、まことの父なのです。わたしたちが父と呼ぶのは、わたしたちが彼から生まれ、彼の命を持っているからです。

 「アバ」と「父」が結び合わさると、その結果は、深くて、甘い感覚、絶妙に親密な感覚を生み出します。「アバ、父よ」で甘さは強まるのです。ですから、このように呼ぶ時の感覚は非常に甘く、親密なものです。

 子たる身分の霊がわたしたちの霊の中に入られたのですが、その霊はわたしたちの心の中で「アバ、父よ」と叫ぶのです。これは、子たる身分におけるわたしたちと御父との関係は甘く、親密であることを示しています。例えば、息子が彼の父に向かって、「ダディー(パパ)」と呼ぶ時、彼の内側には甘く、親密な感覚があるでしょう。ところが、その息子が義理の父に向かって同じように呼んでも、その感覚は同じではないでしょう。それは、義理の父とその息子の間に命の関係がないからです。父とその命の関係を享受している小さな子供たちが、優しく「ダディー」と呼びかけるのは、何と甘いことでしょう。同じように、神を「アバ、父よ!」と呼ぶのは、何と愛情に満ちて、甘いことでしょうか。このような親密な呼びかけは、わたしたちの霊ばかりか、わたしたちの心も伴います。わたしたちの霊の中にある子たる身分の霊は、心から「アバ、父よ」と叫びます。このことは、わたしたちが父との正真正銘、真実の関係を持っていることを示すものです。わたしたちは彼の真正な子供、彼の真実な子供であり、彼はわたしたちの真実な父です。

Top

12 唯一の神

 新約聖書では、神は唯一の神として明確に啓示されています。テモテへの第一の手紙第一章十七節は言います、「今やもろもろの時代の王、朽ちることのない、目には見えない、唯一の神に、誉れと栄光とがもろもろの時代の中の幾時代までもあるように、アーメン!」。ローマ人への手紙第十六章二七節で、パウロは宣言します、「すなわち唯一の知恵ある神に、イエス・キリストを通し栄光が永久にいつまでもあるように! アーメン」。ユダの手紙二五節は、わたしたちの救い主なる唯一の神と言います。なおまた、コリント人への第一の手紙第八章四節と六節で、パウロは、「おひとりのほか神はない」また「わたしたちにはひとりの神、父がある」と言います。わたしたちの神は唯一無二の神であって、多くの偽の神々とは完全に異なります。

Top

13 目に見えない神

 コロサイ人への手紙第一章十五節は、見えない神と言っています。神は見えませんが、彼の愛する御子(コロサイ一・十三)、「彼の栄光の輝きまた彼の本質の明確なかたち」(ヘブル一・三)は、神のかたちであり、神が何であられるかを表現しています。

 神が見えないと告げている別の聖句は、テモテへの第一の手紙第一章十七節、同じく第六章十六節やヘブル人への手紙第十一章二七節、またヨハネの第一の手紙第四章十二節があります。ヨハネによる福音書第一章十八節は言います、「神を見た者はだれもいない。父の懐におられるひとり子、彼が彼を明らかに示されたのである」。ヨハネによる福音書第一章によると、神は見えないのですが、父のひとり子が、言、命、光、恵み、実際によって神を明らかに示されました。言は表現された神です。命は分与された神であり、光は輝く神、恵みは享受された神、実際は実感された神です。見えない神は、これらの五つのものを通して、御子において、完全に明らかに示されたのです。

Top

14 生ける神

 新約の多くの節は、神が生ける神であることを啓示しています。マタイによる福音書第十六章十六節で、主イエスは生ける神の子と呼ばれています。この節で、生ける神は死んだ宗教と対比されています。キリストに化身された生ける神は死んだ宗教とはいっさい関係ありません。

 テモテへの第一の手紙第三章十五節でわたしたちは、神の家である召会は、生ける神の召会であることを見ます。神の家として召会を述べる時、パウロは神を特に生ける神と言います。召会の中に生きておられる生ける神は、客観的というよりは召会にとって主観的であるはずです。異教の宮にある偶像には命がありません。神の生ける宮である召会の中で生き、行動し、動き、働かれる神は、生きておられます。神は生きておられるので、召会も彼の中で、彼によって、彼と共に生きています。生ける神と生ける召会は共に生き、共に動き、共に働きます。生ける召会とは生ける神の家であり、家族です。

 テモテへの第一の手紙第三章十五節で、パウロは単なる神にではなく、生ける神に言及しています。神は生きておられ、今や、彼は召会の中で生き、住み、動き、働かれます。ですから、召会は生ける神の召会なのです。

 ヘブル人への手紙第三章十二節には、生ける神に関して警告があります。「兄弟たちよ、気を付けなさい、あなたがたのうちのだれかに、生ける神から離れ去ろうとする不信仰の邪悪な心があるといけないからである」。わたしたちの神は生ける神です。不信仰は邪悪なものです、なぜなら、それは生ける方である神を侮辱するからです。

 生ける神に関して、ヘブル人への手紙第九章十四節は言います、「まして永遠の霊を通し傷のないご自身を神にささげられたキリストの血は、なおさらわたしたちの良心を死んだわざからきよめて、生ける神に仕えさせないであろうか」。ヘブル人への手紙は宗教を教えている書ではなく、生ける神を啓示している書です。もしわたしたちがこの生ける神に接触しようとするなら、わたしたちの霊を活用して(ヘブル四・十二)、血で清められた良心を持つ必要があります。キリストの血はわたしたちの良心を清めて、わたしたちを生ける神に仕える者とします。

 ヘブル人への手紙第九章十四節は、死んだわざと生ける神について述べています。わたしたちは再生される前、違反と罪の中に死んでいました(エペソ二・一、コロサイ二・十三)。ですから、わたしたちが行なった事は何であれ、それが良くても、悪くても、生ける神の前には死んだわざでしかありませんでした。しかし、今や、わたしたちはキリストの血によって清められた良心をもって、生ける神に仕えることができます。

 ヘブル人への手紙第十章三一節は言います、「あの生ける神の手に陥るのは、恐るべきことである」。ヘブル人への手紙第十章は、ヘブル人信者たちに、神の新約のエコノミーにしたがって前進するように、古いユダヤ教に後戻りしないように命じています。それから、もし彼らが神の新約の道から離れ去るなら、彼らは生ける神によって対処されるであろうと警告を与えています。彼は生きておられるので、彼の民を裁かれます。

 ヘブル人への手紙第十二章二二節は、生ける神の都に言及しています。死んだユダヤ教を取り扱う書として、ヘブル人への手紙は神を生ける神としてさまざまな角度から啓示します。ここでは、新約の信者たちは生ける神の都へと来ていると告げます。ここの都とは、天のエルサレムのことであり、それは神の新約のエコノミーにおいて(マタイ二三・三七―三八)、神によって捨てられてしまった地的なエルサレムと対比されています。神はあらゆる点で生きておられるのですから、ヘブル人の信者たちは生ける神にふさわしい事柄にだけとどまるべきなのです。

Top

15 近づきがたい光の中に住む不滅の方

 神はまた近づきがたい光の中に住む不滅の方でもあります。この点に関しては、テモテへの第一の手紙第六章十六節は言います、「ただひとり不滅を保ち、近づきがたい光の中に住まわれ、何びとも見たことがなく、また見ることもできないかたである、そのかたに誉れと永遠の権能とがあるように、アーメン」。御父は近づきがたい光の中に住んでおられますが、わたしたちはキリストにあって御父に近づくことができますし、また御父と交わることもできます。わたしたちが御父に近づくことができるのは、わたしたちがもはや暗やみの中にいないからです。彼は光の中におられ、わたしたちも光の中にいます(Tヨハネ一・五、七)。なおまた、この近づきがたい光の中に住む不滅の方がわたしたちの中に分与されているのです。

Top

16 聖と峻厳の中の焼き尽くす火

 ヘブル人への手紙第十二章二九節は言います、「なぜなら、わたしたちの神は焼き尽くす火だからでもある」。彼は聖と峻厳の中の焼き尽くす火です。神は聖い方であり、聖は神の性質です。彼の聖い性質にそぐわないものは何であれ、焼き尽くす火である神が焼き尽くされるでしょう。ですから、彼は厳格な方であって、峻厳の中で彼の聖を表現しておられるのです。もしヘブル人への手紙の受け取り人である、ヘブル人の信者たちがユダヤ教へとそれて行ったなら、それは、神の目には俗的であり、聖くないことです。それで彼らもそれによって聖くないものとなり、聖なる神が焼き尽くす火として彼らを焼き尽くしてしまわれるでしょう。

 神は義なる神であるばかりか、聖なる神でもあります。神の義を満足させるには、わたしたちはキリストの贖いを通して、義とされる必要があります。神の聖の要求を満たすには、わたしたちは天的な、現在の、生けるキリストによって、聖別され、聖くされる必要があります。ローマ人への手紙は、神の義のために(ローマ三・二五―二六)義認(ローマ三・二四)を強調しています。一方、ヘブル人への手紙は、神の聖のために(ヘブル十二・十四)聖別(ヘブル二・十一、十・十、十四、二九、十三・十二)を強調しています。このゆえに、ヘブル人の信者たちは、自らを聖くないユダヤ教から、新約の下で、御子にあって、ご自身を完全に表現された聖なる神へと分離される必要があったのです。そうでなければ、彼らは彼らの古い、不敬虔な宗教によって自らを汚し、焼き尽くす火である聖なる神から対処を受けたでしょう。

Top

17 全能者

 神は全能の方である、と述べている節はたくさんあります(啓一・八、四・八、十九・六、十五、Uコリント六・十八)。啓示録は神を全能者として啓示しています。ヘブル語で、「神」という呼び名は、大能なる方、大能の、力強い方という意味です。ところが、啓示録で見るのは、神は大能であるだけでなく、全能でもあります。全能者として、神はあらゆる点で、すべてのことで、すべての人に対して力強いのです。

Top

18 唯一の真の神

 ヨハネによる福音書第十七章三節で、主イエスは御父のことを「唯一の真の神」と呼んでいます。これは、唯一の神が実際であり、真理であるという意味です。神を持たないものは何であれ、真のものではなく、実際ではありません。主はわたしたちの命を実際とするために、真理、実際(ヨハネ一・十四)としての神と共に来られました。わたしたちがこの実際、真の神を知ることができるために、主は永遠の命をわたしたちに与えられました。ヨハネによる福音書第十七章二節と三節の主の御言は、永遠の命には真の神を知る能力があることを示しています。真の神を知るために、わたしたちは神の神聖な命、永遠の命を必要とします。わたしたちは、信者として、神の神聖な命から再生されたのですから、わたしたちは、神は真の神であると知ることができます。真の神の命は確かに真の神を知ることができます。わたしたちは真の神の命を持っているがゆえに、わたしたちは唯一の真の神を知る能力を持っています。

 ヨハネの第一の手紙第五章二〇節は言います、「またわたしたちは知っている、神の御子がこられて、わたしたちが真実なかたを知る理解力をわたしたちに与えてくださった。それでわたしたちは真実なかたの中に、御子イエス・キリストの中にいるのである。これが真の神また永遠の命である」。この節の、「真実なかた」は真の神を示しています。真実な方を知るとは、実際には、真の神を経験し、享受し、所有することです。わたしたちは神を真の方として経験し、享受し、所有するために、真の神の命、永遠の命を必要とします。

 ヨハネの第一の手紙第五章二〇節には、「真実なかた」という表現が二回使われています。神のことをただ神と言うのは、むしろ客観的な言い方です。ところが、「真実なかた」と言えば、それは主観的になります。それは、わたしたちにとって主観的になられた神を指しています。客観的な神が、わたしたちの命と経験の中で、主観的な方、真実な方となられるのです。真実な方は実際です。神の御子は、彼の受肉、死、復活を通して、わたしたちに理解力を与えてくださいましたが、それは、わたしたちがこの神の実際を知ることができるため、すなわち経験し、享受し、所有することができるためです。かつてはただ客観的でしかなかった神が、今や、わたしたちの主観的な実際となられました。

 ヨハネの第一の手紙第五章二〇節の最後の部分は言います、「これが真の神また永遠の命である」。「これが」というのは、受肉を通して来られた神であり、真実な方として、主観的に彼を知る能力を与えてくださった神を指しており、こうして御子、イエス・キリストにおいて、わたしたちを彼と有機的に一つにしてくださいました。これはすべて、わたしたちにとっては真の神であり、また永遠の命です。この真の神がわたしたちにとって何であれ、それは永遠の命であり、それは再生されたわたしたちが彼をすべてとしてあずかり、また享受するためです。

Top

19 唯一の主権者

 テモテへの第一の手紙第六章十五節で、パウロは、カイザルの統治の下にあった時に、神こそ唯一の主権者であると述べていますが、それは、神こそ唯一の支配者、唯一の権力者であって、彼は最も完全で、最高の権威と力を持っておられるということです。ですから、彼はもろもろの王として、またもろもろの主として支配する者たちの王です。カイザルでさえ彼の下にいました。疑いもなく、カイザルの下で投獄された同使徒は、そのような主権者である神を認識することによって励まされたことでしょう。

Top

20 聖なる、真実な主権者である主

 啓示録第六章十節で、殉教した聖徒たちが神に対して、「聖なるまた真実なる、主権者なる主よ」と叫んで言いました。「主権者なる主」のギリシャ語は「デスポテース」で、その意味は、使徒行伝第四章二四節、ルカによる福音書第二章二九節、ユダの手紙四節にあるように、奴隷の上に絶対的な主権を有する力を持つ奴隷の主人です。神の言葉とイエス・キリストの証しのゆえに殉教した聖徒たちは、このような主権者なる主人として、彼らが仕え、また殉教することを許される神を認識したのですが、この方は、彼の性質と特徴において、聖く(他のすべてのものとは区別される)、真実な(偽りでない)だけでなく、彼らをも主に対して聖く(聖別された、分離された)、真実な(真実で、信実な)者とされるのです(比較、啓三・七とフットノート3)。

Top

21 もろもろの時代の王

 テモテへの第一の手紙第一章十七節で、パウロは神のことを、もろもろの時代の王として述べています。ここの「もろもろの時代」とは、実際には、永遠の意味です。この言葉は、召会の衰退との関連で理解する必要があります。パウロが投獄されていた時、諸召会は衰退し始め、その状態は非常に落胆させられるものでした。多くの人たちは落胆しました。パウロの同労者たちでさえ何人かは彼から離れてしまいました。しかし、彼には、自分が信じた神、また彼に栄光の福音を託されたこの方こそ、もろもろの時代の王、永遠に全き権威を持っている方、決して変わることのない方である、という強い信仰がありました。地のいかなる王も、もろもろの時代の王と言える者はいません。カイザルは一時的な支配者です。わたしたちの神とは何と異なっていることでしょう! パウロが仕えた神は、もろもろの時代の王、永遠の王です。わたしたちが仕えている方、ご自身をわたしたちの中に分与されつつある方は、もろもろの時代の王なのです。

Top

22 もろもろの王の王、もろもろの主の主

 テモテへの第一の手紙第六章十五節で、パウロは、神は「王として統治する者たちの王、また主として支配する者たちの主であり」と述べていますが、これは、神が全宇宙で最高の権威であることを示しています。ですから、この方は使徒が信頼した唯一の主権者です。 

Top

23 朽ちることのない者

 テモテへの第一の手紙第一章十七節で、わたしたちは、もろもろの時代の王として、神は朽ちることのない者であるのを見ます。彼は彼の性質、力、いかなる特質においても、決して変わることはありません。彼はいつも同じままです。彼以外のすべてのものは朽ちてしまいます。召会は衰退し、悪化し、堕落するかもしれませんが、神は朽ちることがありません。

Top

24 永遠の神

 ローマ人への手紙第十六章二五節から二六節は、すべての国民に隠れた奥義を知らせるようにとの命令を与えられた神は、永遠であられると告げています。これは、神が不変であって、いかなる種類の環境や状況にも何の変化も受けないことを示しています。この命令を与える神は永遠であって、永遠に変わることがないので、この命令もまた永遠です。

Top


 このメッセージで、わたしたちは新約で啓示された、神のパースンの各面についてのわたしたちの学びを終えることにしましょう。

25 今いまし、昔いまし、やがて来たるべき方

 啓示録で、神は、二回、今いまし、昔いまし、やがて来たるべき方であると述べています。これはエホバという名の意味です。エホバのヘブル語は、「わたしはある」という意味です。「わたしはある」という彼の存在は、彼が永遠から永遠までおられる方であることを示します。この呼び名は、基本的には、「ある」という動詞から成っています。神、エホバ以外のすべてのものは無です。彼は「おられる」唯一の方であり、存在の実際を持った唯一の方です。「ある」という動詞は、彼以外のだれか、もしくは何かに決して適用すべきではありません。彼は唯一独立して存在する方であり、また常に存在する方です。宇宙におけるすべてのものは無です。ただ神だけが、今いまし、昔いまし、やがて来たるべき方です。過去、彼はおられました、現在、彼はおられます、将来も彼はおられます。

 ヘブル人への手紙第十一章六節は、「神に向かって来る者は彼がおられることを信じる」と言います。この節によると、神はおられますから、わたしたちは彼がおられることを信じなければなりません。神はおられます。しかし、わたしたちも、すべてのものもそのようなものではありません。今いまし、昔いまし、やがて来たるべき方として、神は自ら存在する方であり、また常に存在する方です。彼は自分以外の何にも依存しない方であり、また初めも終わりもなく、永遠に存在する方です。他のいかなるものも存在する前から、神はおられました。非常に多くのものが消えていった後も、神は依然としておられるでしょう。神は過去おられました、神はおられます、神はこれからもおられます。

 自ら存在するかた、また常に存在するかたとして、神はあらゆる積極的なものの実際です。ヨハネによる福音書は、彼がわたしたちの必要のすべてであることを啓示します。すなわち、彼は命、光、食物、飲み物、牧場、道、すべてであられます。ですから、この神の呼び名は、彼が永遠に存在することを示しているだけでなく、積極的な意味で、彼はすべてのものであることをも示しています。あなたに命が必要ですか? 神が命です。あなたは光が欲しいですか? 神が光です。聖を求めますか? 神が聖です。神は永遠から永遠まで存在し続け、また彼はすべてのすべてのものです。これがわたしたちの神です。

 わたしたちが、今いまし、昔いまし、やがて来たるべき方として、神を知ることは必要なことです。天地は過ぎ去るでしょう、しかし神はおられます。あなたは自分の弱さに失望していますか? ある日、あなたの弱さはなくなってしまいますが、神は依然としておられます。神以外のものは何であれ、信じてはいけません。あなたの力も、あなたの弱さも信じてはいけません。なぜなら、それらは消え去るからです。しかし、それらが消え去っても、神は変わることなく存在し続けます。そうです、わたしたちは永遠に存在する方として、彼を信じなければなりません! もしわたしたちが、今いまし、昔いまし、やがて来たるべき方として、神を知ったなら、わたしたちは、特に困難な時に大いに励まされることでしょう。

Top

26 アルファとオメガ

 神はまたアルファとオメガです(啓一・八、二一・六)。永遠の、全能の神はアルファ、神の永遠の目的の開始のための初めであり、またオメガ、その完成のための終了です。創世記では、彼はアルファでしたが、啓示録では、彼はオメガです。彼が始められたことは何であれ、それを完成されます。統治上、彼は宇宙的な働きを続けておられますが、それは、彼が永遠から始められて、将来、完成されるものです。

 アルファとオメガとは、ギリシャ語のアルファベットの初めと終わりです。神がアルファであり、またオメガであるという事実は、すなわち、彼が宇宙の物語を構成するのに必要とされる、「アルファベット」全体であるという意味なのです。彼はまた、わたしたちの個人的な生活の歴史を書くための「文字」でもあります。わたしたちの神がアルファであり、またオメガであるとは、何と意味深いことでしょう! 

Top

27 万物の裁き主

 ヘブル人への手紙第十二章二三節によると、神は万物の裁き主です。ヘブル人への手紙第十二章二二節と二四節では、新約の信者たちが来た八つの積極的な項目を記載しています。その中の第五番目のものは、万物の裁き主である神です。神は創造者であり、すべてのものの主、所有者であり、また彼はまた万物の中におられ、万物と共におられます。このような神として、彼はすべてのものを彼の目に正しく保たなければならないのです。彼は正しいものを義とし、間違ったものは罪定めしなければなりません。ですから、彼は万物の裁き主なのです。八つの積極的な項目の中で、万物の裁き主の次のものは、完成された義人たちの霊です。これらの義人たちは、旧約の聖徒たちのことを言っており、彼らは完成された者たち、すなわち、神の選ばれた民を完成するために、彼らの誤りを正す、万物の裁き主としての神によって、正された者たちです。ヘブル人への手紙は、神の新約のエコノミーに関して間違った概念を持ち、また古いユダヤ教へと漂い去るという間違いを犯したヘブル人の信者たちを取り扱っている書です。このために、神は、彼らが万物の裁き主としての神によって完成されるために、彼らを裁き(ヘブル十・二六―三一)、彼らの誤りを正されるでしょう。そういうわけで、第十二章で、彼らが来たのは、万物の裁き主へとである、と告げたのです。これは、万物の裁き主としての神が来て、彼らを神の義に符合させて、彼らを裁く必要がないために、彼らが自分の誤りを正すように、警告を与えたはずです。

Top

28 主

 新約の多くの節は、神が主であると言います(マタイ一・二〇、二二、使徒三・十九―二〇、啓一・八)。神、全能なる方こそ主です。彼が主であるとは、彼が宇宙の所有者であるという意味です。わたしたちは、彼が全宇宙の「主人」であると言ってもよいでしょう。彼は支配者であり、権威です。わたしたちが言うこと、あるいは他の人たちが言うことは、無意味ですが、神が言われることは、すべてを意味をします。なぜなら、彼は主であるからです。彼が「しかり」と言うなら、それはしかりということであり、彼が「否」と言うなら、それは否ということです。神は主であり、所有者であり、権威です。

Top

29 新エルサレムの設計者、また建設者

 ヘブル人への手紙第十一章十節は、神は新エルサレムの設計者であり、建設者であると言います。この節は、アブラハムに関してこのように言っています、「なぜなら彼は土台のある都を待ち望んだからであり、その設計者と建設者は神である」。これは、神が彼の民のために用意した(ヘブル十一・十六)「生ける神の都、天のエルサレム」であり(ヘブル十二・二二)、「上なるエルサレム」(ガラテヤ四・二六)、「聖なる都、新エルサレム」(啓二一・二、三・十二)であり、また神が人と共に永遠に住むための神の幕屋です(啓二一・三)。父祖たちがこの都を待ち望んだように、わたしたちもまたそれを求めます(ヘブル十三・十四)。

 ヘブル人への手紙第十一章十節で、「設計者」と訳されたギリシャ語は、「テクニテース」であり、それは職人、すなわち技術の規定に従って事を行なう人のことを言います。「建設者」と訳されたギリシャ語は、「デミウルゴス」であり、、文字どおりには、人々のために働く人を言います。一般的な用法として、建設者、もしくは、製造者を意味するようになりました。ヘブル人への手紙第十一章十節では、「テクニテース」、「デミウルゴス」という両方の言葉が神によって用いられています。前の言葉は新エルサレムの創案者、設計者としての神について用いられ、後の言葉は都を実際に建設する方、組み立てる方としての神について用いられています。

 ある訳本は、ヘブル人への手紙第十一章十節の、神が設計者、新エルサレムの設計者であるという事実を覆い隠しています。新約で啓示されている新エルサレムを考えてご覧なさい。神以外のだれがこのような都を設計できるでしょうか? 究極の設計者である神だけが成し得るものです。新エルサレムは永遠の、神聖な設計者によって設計されました。

Top

B たとえとしるしにおいて

1 邪悪な農夫たちのたとえの中の家の主人

 神のパースンは新約のたとえの中にも啓示されています。邪悪な農夫のたとえにおいて、神はそこの主人です(マタイ二一・三三―四六)。これについては、マタイによる福音書第二一章三三節は言います、「一人の人、家の主人がいて、ぶどう園を造り垣根をめぐらして、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、そしてそれを農夫たちに貸して、よその国へ出かけた」。家の主人は神であり、ぶどう園はエルサレムの町(イザヤ五・一)、農夫たちはイスラエルの指導者たちです(マタイ二一・三四)。このたとえの中で、わたしたちは家の主人である神が、彼の奴隷たち、預言者たちを遣わされたのを見ます。後ほど、その主人は彼の御子、主イエスを遣わされました。ついに、その主人は邪悪な農夫たちを滅ぼしてしまい、そのぶどう園を他の農夫たちに貸し与えてしまわれました。これは、A・D・七十年、ローマの皇帝タイタスとその軍隊がエルサレムを滅ぼした時に成就しました。このたとえにある「他の農夫たち」とは、使徒たちのことで、彼らは新約において召会、神の王国(マタイ二一・四一)を顧みた人たちです。

Top

2 婚宴のたとえの中の王

 神は婚宴のたとえの中の王です(マタイ二二・一―十四)。これについては、マタイによる福音書第二二章二節は言います、「天の王国は、彼の息子のために婚宴を催す一人の人、王にたとえられる」。ここの「王」は神で、「息子」はキリストです。まず、このたとえによると、神が「彼の奴隷たち」、新約の使徒たちの最初のグループを遣わして、婚宴に招かれていた人たちを呼びました(三節)。再び彼は「他の奴隷たち」、後ほど主によって遣わされた使徒たちを遣わされました(四節)。六節と七節で、わたしたちは、王が彼の奴隷たちを虐待した人たちに対して怒られ、彼らを殺し、「彼の軍隊を遣わして、その人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」のを見ます。これを行なったのが、A・D・七十年にエルサレムを滅ぼしたタイタスと、彼の下にいたローマ軍でした。

Top

3 執ような祈りのたとえの中の友

 ルカによる福音書第十一章五節から八節は、執ような祈りを説明するたとえについて述べています。このたとえの中で、わたしたちが祈りをささげる神を、わたしたちの友に、またわたしたちを彼の友にたとえていますが、それは、わたしたちが祈る時、相互の愛にあって、神がわたしたちには親しく、またわたしたちも神には親しいということを示しています。友の間にある親密さを描いているこの絵は、わたしたちが「敬虔な気持ち」で神に祈る宗教的観念を終わらせるものです。

Top

4 実を結ばないいちじくの木のたとえにおける主

 ルカによる福音書第十三章六節から九節で、わたしたちは実を結ばないいちじくの木のたとえを見ます。このたとえで、神は主です(八節)。このたとえは、いちじくの木の持ち主である神が、ぶどう園である神の約束の地に植えられたいちじくの木であるユダヤ人の所に、御子において来られ、彼らから実を求められたことを示しています。彼は三年間、実を求めてこられましたが(七節)、少しも実も得ることはできませんでした。彼はそのいちじくの木を切り倒したかったのですが、園丁である御子は、彼らが悔い改めて、実を結ぶことを期待しながら、自分が彼らのために死に(いちじくの木の周りを掘る――八節)、肥料を施すので、彼らを忍んでほしいと御父に祈りました。そうでなければ、彼らは切り倒されてしまったでしょう。ルカによる福音書第十一章二九節から三二節までと四二節から五二節までの部分は、邪悪な世代としてのユダヤの人たちに啓示されているので、この解き明かしは確かです。

 このたとえの中で、ユダヤの人たちはいちじくの木として神によって見られています。神がこの木に何の実も見いだせなかった時、神はそれを切り倒そうと考えておられました。ところが、園丁である主イエスは、彼が死と復活という手段により、その木の周りを掘り、そこに肥料を施すまでは、そうしないよう御父に懇願されました。そのようにしても、もしその木が実を結ばなければ、それは切り倒されることでしょう。これは実際に起こったことです。主イエスが死んで、復活され、その霊が来られた後でさえ、ユダヤ人は悔い改めなかったので、「いちじくの木」は「切り倒され」てしまいました。このことが起こったのは、A・D・七十年、タイタスが彼のローマの軍隊をエルサレムに進軍させて、それを滅ぼした時でした。エルサレムの陥落によって、いちじくの木は切り倒されたのです。

Top

5 大晩餐会のたとえの中の家の主人

 ルカによる福音書第十四章十五節から二四節で、神は大晩餐会のたとえの中の「家の主人」です(二一節)。ここの大晩餐会は、マタイによる福音書第二二章二節から十四節の婚宴とは違います。その婚宴は王国の報酬のためでした。この大晩餐会は神の全き救いのためです。神は「ある人」(ルカ十四・十六)として、大晩餐会を催して彼の全き救いを用意し、また彼は初めの使徒たちを彼の奴隷たちとして遣わし、ユダヤ人たちを招かれました(十六―十七節)。しかし、彼らは土地や家畜や妻など、自分の富に占有されていたために、その招待を断りました(十八―二〇節)。そこで、神は使徒たちを遣わして、通りにいた人たち――貧しい人たち、体の不自由な人たち、盲人たち、足の不自由な人たちを招かれました。彼らは自分の貧しさと不幸のゆえに、神の招待を受け入れました(二一―二二節前半)。しかし、神の救いには、依然として、さらに多くの人が入るための余地が残されていたのです。そこで、神は奴隷たちをさらに遠く、「道や垣根のあたり」の異邦人世界へと遣わし、異邦人を強いて連れてきて、彼の救いの空席を満たします(二二後半―二三節、使徒十三・四六―四八、ローマ十一・二五)。

Top

6 放蕩息子のたとえの中の、愛で迎える父

 放蕩息子のたとえの中で(ルカ十五・十一―三二)、神は愛する、受け入れる父として啓示されています(二〇―二四節)。その放蕩息子は、父から受け取ったすべてのものを取りまとめて、遠い国に旅だって行き、そこで彼は、放蕩の生活をして財産を浪費しました(十三節)。彼は父から受け取ったすべてのものを使い果たした後、ひどい飢きんが襲うと(十四節)、彼は自分の真の状況を知り、父のもとに戻る決心をしました(十七―十八節)。「そして彼は立ち上がって自分の父のもとに来た。ところが彼がまだ遠く離れていたのに、彼の父は彼を見た、そしてあわれみで動かされた。それで彼は走り寄って、彼の首を抱きかかえ、愛情をこめて彼に口づけした」(二〇節)。父が息子に出会ったのは、偶然ではありませんでした。むしろ、父は家の外で放蕩息子の帰りを待っていたのです。父は息子を見つけると、彼の所に走り寄って、彼の首を抱きかかえ、愛情をこめて彼に口づけしました。これは、父なる神が帰ってきた罪人の所に走り寄って、受け入れられることを示しています。これは何と熱烈でしょう! 父が彼の息子の首を抱きかかえて、愛情をこめて彼に口づけすることは、温かく、愛情に満ちた歓迎の意を示しています。父はそこで彼の奴隷たちに言いました、「急いで最上のあの衣を持ってきて、彼に着せなさい、また彼の手に指輪をはめ、彼の足にサンダルをはかせなさい。また肥えた子牛を引いてきて、それをほふり、そしてみんなで食べて楽しもう。わたしのこの子が、死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのだから!」(ルカ十五・二二―二四前半)。

Top

7 執ような祈りのたとえにある不義な裁判官

 ルカによる福音書第十八章一節から八節の執ような祈りのたとえにある、不義な裁判官は義なる神を示しています(六―七節)。三節の「やもめ」は信者たちを象徴しています。ある意味において、信者たちは、現在の時代では、やもめです。なぜなら、彼らの夫キリスト(Uコリント十一・二)は、彼らから離れておられるからです。キリストにある信者たちにはまた敵対者、悪魔サタンがいますが、これに対しては神の報復を必要とします。わたしたちはこの報復を求めて、失望せずに、根気よく祈るべきです。八節は、神によるわたしたちの敵に対する報復は、救い主が戻ってくる(Uテサロニケ二・六―九)時に、行なわれることを示しています。

 このたとえは、主の表面上の不在の時に、わたしたちが敵対者から受ける苦難について述べています。彼が表面上不在である間、わたしたちはやもめであって、わたしたちの敵対者はいつもわたしたちを悩まします。この敵対者がわたしたちを迫害している間、わたしたちの神は不義であられるかのように思えるというのも、彼が、彼の子供たちが不当に迫害されることを許しておられるからです。例えば、バプテスマのヨハネは首をはねられてしまいました。ペテロは殉教し、パウロは投獄され、ヨハネは島流しにされてしまいました。幾世紀にもわたって、何千何万という主イエスに忠実に従う者たちが、不義な迫害を受けてきました。今日でさえ、わたしたちは依然として不当な扱いを受けています。わたしたちの神が不義な方であると思われているのは、彼が来られて、裁かれず、擁護されないからです。わたしたちの夫が表面上不在であり、またわたしたちがやもめのようにこの地上に残されている時、一時的にですが、わたしたちの神は不義な裁判官と思われます。彼が不義であるかのように見えても、わたしたちは依然として彼に訴え、執ように祈り、何度も何度も彼を悩まさなければなりません。

 一面、このたとえは、裁判官には最高権力があることを示しています。これは、彼が裁くか、裁かないかは、すべて彼の一存で決まるという意味です。表面上、彼は、やもめの話を聞いているのか聞いていないのかわからないかのように見えます。このたとえは、神が主権を持った主であって、彼は裁きたい時に裁かれる方であることを啓示しています。もう一面では、このたとえは、わたしたちは執ように祈ることによって、主を悩ます必要があることを示しています。このたとえの意義は深遠です。わたしたちはみな主がここで啓示されているように、神を知る必要があります。

Top

8 碧玉と赤めのう

 この項目と次の二つの項目は、すべて啓示録の中にある絵として、神が何であるかを見せています。啓示録において、神は彼の啓示を「しるし」、霊的意義を伴う象徴によって、わたしたちに知らされます(啓一・一)。ヨハネは、多くの面で実に神聖で、奥義的で、深い啓示を受けましたが、それは人の言葉をもっては十分に表し尽くせないものです。ですから、それらはしるしによって知らされました。啓示録第四章二節と三節は言います、「御座が天に据えられており、その御座に座しておられるかたがあった、そして座しておられるかたは碧玉また赤めのうのように見え」。啓示録第二一章十一節によると、碧玉は「最も高価な宝石……水晶のように透明」です。その色は深い緑色であって、命の豊かさを象徴しています。啓示録第二一章十一節で示しているように、ここの碧玉は神が豊かな命の中で伝達し得る栄光(ヨハネ十七・二二、二)を象徴しています。それは神の表現であり、それはまた聖なる都、新エルサレムの表現でもあります(啓二一・十一)。都の城壁とその第一の土台はそれで建造されていました(啓二一・十八―十九)。 

 赤めのうは赤色の最も高価な宝石であり、それは贖いを象徴しています。碧玉は神をその豊かな命において栄光の神として示していますが、赤めのうは神を贖いの神として象徴しています。旧約における大祭司の胸当てにある最初の石は赤めのうであり、最後の石は碧玉でした(出二八・十七、二〇)。これは、神の贖われた民が神の贖いにおいてその始まりを持ち、神の命の栄光の現れにおいてその完成を持つことを象徴します。

Top

9 新エルサレムにおける宮

 啓示録第二一章二二節は、神が新エルサレムにおける宮であることを示しています。「またわたしはその中に宮を見なかった、その宮は主、全能者なる神と小羊だからである」。ここの宮のギリシャ語は「ナオス」で、至聖所と聖所を持つ一般的な宮全体を示しているのではありません。むしろ、それは内なる宮、至聖所を示しています。この内なる宮は、主なる神であって、神が、わたしたち彼の贖われた者たちが住み、また彼に仕えるための場所となられることを象徴します。新エルサレムにおいて、わたしたちは神の中に住むでしょう。神自ら彼に仕えるすべての人たちの住まいとなられます。

Top

10 新エルサレムにおける光

 啓示録第二一章二三節で、わたしたちは、神が新エルサレムにおける光であることを見ます。「またその都では、太陽も月もその中で輝く必要がない、というのは神の栄光がそれを照らしたからであり、またそのともし火は小羊だからである」。都の宮は神ご自身であり、そのあかりも神ご自身です。ともし火としての小羊は光としての神をもって輝き、神聖な光の表現である神の栄光をもって都を照らします。この神聖な光が都全体を照らすので、天然の光も、人工的な光も必要がなくなるでしょう。神自らが聖なる都の光となられるのです。

 これらのメッセージで、わたしたちは神のパースンに関する多くの面について考えてきました。わたしたちはこの点について新約全体を網羅してしまったかもしれません。わたしたちが神のパースンのあらゆる面について考えたなら、わたしたちは、どのような神がご自身をわたしたちの中へと分与しておられるのかを見ることができます。

Top